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大正の『スター』が愛人に刺され…妻、愛人2人の四角関係と“自由恋愛”の果て

大正の『スター』が愛人に刺され…妻、愛人2人の四角関係と“自由恋愛”の果て

湘南のリゾート名門旅館での「惨劇」#1

2022/10/16
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「唾棄すべき獣性の暴露」

 辻潤は当時女学校の教師で、教え子だった野枝と結婚。野枝が去った後は翻訳家、ダダイスト(既成の秩序や常識に反抗する芸術運動「ダダイスム」の信奉者)として知られたが、太平洋戦争中、餓死した。

 そんな経緯から、新聞にはかなり厳しい見方の見出しや記事が散見される。「常識で判断の出来ない奇怪な人種」(報知初報見出し)、「無節操の一團(団) 唾棄すべき(非常に不快な)獣性の暴露」(東朝初報見出し)、「盲目なりし共同生活」(報知続報見出し)……。

 中でも「市子の戀は高潮であった 人道を無視した生活」が見出しの10日付國民朝刊の記事は、事実関係が誤っているばかりでなく、記者の個人的な感情がほとばしっているといえる。

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 市子はトウトウ大杉を殺した。普通の人が口にすることさえできないような秘事を、平気で雑誌などへ書くああした男女にでも、人並みに嫉妬があるとみえて、ついに殺すに至ったのである。大杉という男は、彼ら仲間では深酷の恋を味わっているなどと言っているが、普通から言うと色魔である。

 大杉も野枝も原稿生活をしていて時々食うにさえ困ったところから、大杉は市子から金を巻き上げては野枝へ送ったこともあった。その後、大杉は本妻の保子と別居し、野枝と市子と保子の3人を一夜ずつ泊まり回ったというようなありさまで1年ばかり続いたのである。市子の恋の熱情は野枝よりも常に高潮に達していたが、いかにも恋の仕方が真面目ではあるが下手であった。野枝の方は辻という亭主との間に2人の子まであるのに、大杉と姦通して別れたほどの女であるから、市子との競争において常に優者の地位を占めていたという。何にしても、この間の関係というものは全く人道を無視した生活であった。

 これほどでなくても、当時はこうした捉え方が主流だったのは間違いない。そもそも社会主義や無政府主義は人倫にもとる思想であり、そうした考えを持つような人間は普通の倫理観も持っていない、という見方だったのだろう。事件を四角関係の果ての刃傷沙汰としてしか見なかったのも当然だ。

大杉、市子、野枝…彼ら彼女らの人生

 大杉の主な経歴は東朝に載っている。

「明治18(1885)年、愛知県海東郡上守村(神守村の誤り=現津島市)に生まれ、明治38(1905)年、(東京)外国語学校仏語科を卒業。かつて社会主義者として赤旗事件に関係し、堺枯川(利彦)氏とともに入獄したことがある。堀紫山氏の妹、保子をめとり、雑誌『近代思想』を経営。その他、社会主義に関する著書などもすこぶる多く、最近は本郷菊坂町、菊富士ホテルに情婦・伊藤野枝と同棲していた」

大杉栄(大澤正道「大杉栄研究」より)

 付け加えれば、職業軍人の長男として、当時のエリート軍人コースにつながる名古屋の陸軍地方幼年学校に進んだが、同性愛や傷害事件に絡んで退学処分に。

 その後は活動家として社会主義から無政府主義(アナーキズム)に大きく傾き、記事にあるように雑誌「近代思想」と月刊「平民新聞」を創刊して多くの論文を発表したが、内容からたびたび発禁処分を受けるなどして経済的な苦境が続いていた。

 市子については東朝などにも記述があるが、同じ11月10日付時事新報がより詳しい。

「長崎県北松浦郡佐々村、神近謹吾の妹で、郷里の小学校を卒業。長崎に出て同地の活水女学校に入り、明治44(1911)年の春、同校を卒業した。上京して女子英学塾(現津田塾大)選科に入学。すこぶる英語に堪能で、大正2(1913)年4月、中位の成績で卒業した。一時地方に出て教師などをしていたが、再び上京。婦人記者として某新聞社に入ったが、その後退社した」

神近市子(「神近市子自伝 わが愛わが闘い」より)

 神近謹吾は医師だったが、家は傾いていたという。「某新聞社」とは東日のことだが、当の東日は経歴の中でそのことには全く触れていない。

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