保子は明治時代に読売などで記者を務めた高名なジャーナリスト・堀紫山(本名・成之)の妹。一方、市子は警察の葉山分署の署長室で、横浜から来た地裁の検事、予審判事らの取り調べを受けた。「悪びれた様子もなく、尋問に対し凶行のてんまつをとうとうと弁じ立てた」(東日)という。他紙も大筋で内容は同じだが、記者の先入観が見出しや記事ににじんでいる。
報知の第一報には「大杉は危険人物として注意を加えていたが、今回のことは主義の衝突などではなく、全く市子の嫉妬から起こったので、痴情の結果にほかならない」との神奈川県警察部長の談話がある。
社会主義者として知られていた堺利彦(枯川)の談話が複数の新聞に載っているが、それぞれニュアンスが微妙に違う。
堺は死別した妻が大杉の妻・保子の姉で、大杉の古くからの仲間だったが、アナーキズムに傾斜した大杉とは徐々に距離が開いていた。
時事新報(10日付朝刊)では「いや困ったことをしてくれました。いずれこんなことになるのではないかと心配していたのですが」「動機は分かりかねますが、思想上の問題ではなく、単なる恋愛事件でしょう」としている。
事件に至るまでに何があったのか
事件に至るいきさつは、「惡(悪)魔の戀(恋) 大杉と市子=野枝と大杉 野枝と市子の嫉視」の見出しで、最も微に入り細をうがった東日の記事を要約する。
〈神近市子が大杉と知り合ったのは約3年前。大久保にあった大杉の住居を訪問した時だった。以来両者は繁く往来し、当時市子が寄寓していた芝桜田の家にはしばしば大杉が訪ねてきて夜が更けるまで語り合っていた。
その後、市子は大杉の言動から彼の抱く思想に傾き、ついには大杉が主宰していた講演会の同人に。そのうち、大杉はフランス語の講習会を開き、自分が講師となって語学の教授をしていたが、市子も聴講生となって日曜ごとに大杉の家に出入りしているうち、いつか2人は相許すようになった。
大杉には縁の深い堀保子(38)という内縁の妻があり、表面上は何事もなかったが、両者の恋愛関係が激しくなるにしたがって、大杉はついに保子と別居。麹町三番町の下宿屋に居を定め、2人は初めて公然と行き来するようになり、市子はほとんど大杉のもとに入りびたりになった。
しかし、このころから、大杉はさらに伊藤野枝と相許すようになり、野枝は夫の辻潤と別れて子を引き連れ、神田三崎町に下宿して、大杉とお互いに往来するに至った。
市子はその後、住居を麻布霞町から広尾に移し、相変わらず大杉と往復していたが、大杉と野枝の交情が次第に濃厚になっていくにつれ、さすがに女のことだから心が穏やかでなくなった。だが、表面上は野枝と大杉との仲を許し、野枝もまた大杉と市子の間を別段とがめだてせず過ごしてきた。ところが、今年春以来、野枝と大杉の交情が濃くなり、大杉が野枝が一時移っていた(千葉県)上総御宿に訪ねて行って同棲したころから、市子は不快の念を強め、野枝に対する反感を増しつつあった。
最近、野枝と大杉との関係はますます濃厚になり、市子は常に嫉妬の炎に苦しんだ。大杉を独占しようという思いは日を追って強くなっていたが、その激しい情火は、ついに大杉、野枝、市子が葉山に落ち合うことで最高潮に達し、盲目の恋の奴隷となり果てて今回の凶行をあえてするに至った。〉
かなり抑えてリライトしたが、それでも昔の新聞記事らしくドラマチックに描きすぎ。しかし、多くの点でほぼその通りだったようだ。