この事件で大きくクローズアップされた「自由恋愛」(フリーラブ)は大杉の持論だった。事件の10年前、自分が編集を担当していた「家庭雑誌」1906年12月号に「予の想望する自由恋愛」というエッセーを掲載。その中で「将来の自由なる男女関係」として「男女の関係を総ての桎梏(自由な行動の束縛)より脱出せしめんとする、これすなわち自由恋愛論の本旨である」とうたった。つまり、たとえ配偶者がいても、本来恋愛は自由だという意味だった。
実際に市子とも野枝とも関係を持った大杉は、次のような論理を持ち出している。
「神近と三人で会って、僕のいわゆる3条件たる『お互いに経済上独立すること、同棲しないで別居の生活を送ること、お互いの自由(性的のすらも)を尊重すること』の説明があった」=「一情婦に與へ(与え)て女房に對(対)する亭主の心情を語る文」(「女の世界」1916年6月号所収)
大杉のおいに当たる大杉豊の「日録・大杉栄伝」によれば、それは事件から約9カ月前の1916年2月中旬のことだった。
市子はそれから半世紀以上たった1972年に出版した「神近市子自伝 わが愛わが闘い」にその条件を記述。「この3条件を当事者の4人が守れば、複雑な四角関係は成立するというのである」と書いている。大杉は市子に「俺は多角恋愛の実験を試みているんだ。君がついていけないのは思想的未熟のゆえだ」と言って困らせたという(同書)。
「自由恋愛は資本主義社会では不可能で、共産制度が実現したのちに可能になる」?
ただ、大杉も「予の想望する自由恋愛」で、自由恋愛は資本主義社会では不可能で、共産制度が実現したのちに可能になるとしていた。それを現実社会で実現しようとすれば「公序良俗に反する」とされるのは当然。いまも「不倫」がスキャンダルになる点では大きな変わりはないだろう。
その点をメディアが非難、攻撃し、世論を作り上げたことに不思議はない。その世論は事件以前から作られ始めていた。「日録・大杉栄伝」は「囂々(ごうごう)たる非難」が3人に浴びせられたと書いているが、最も早いのは、1916年5月2日発行3日付夕刊から5回続きで連載された「伊藤野枝子と大杉栄氏」の副題を付けた萬朝報の「新婦人問題」だろうか。
全て実名で、記者が旅館にいた大杉と野枝、野枝に去られた辻、そして保子を訪れてインタビューしている。内容は真面目だが、「主義か浮気か」「破壊主義の勝」「淋(寂)しい家と人」「棄(捨)てられた女」などの中見出しに加えて、記者は次のように書いた。
「恋愛は結婚にまで進まねばならぬ。そして純一でなければならぬ。この信念と主張をどう始末して、野枝子は大杉を受け入れたのであろう」と疑問を提起。
「大杉には妻もあれば他の情婦もある。その間に割り込んだ野枝子には、何か不可抗力の論拠がなくてはならぬはずである。もしなかったら、野枝子はある感激の結果、主義、節操を投げうって一情人のところへ走ったのだと言われても仕方はない。世間は既にそう言っているだろう」
当時の常識そのままの捉え方で、事実、事件後の世論はその通りになった。
萬朝報の連載が継続中の5月5日付東朝朝刊社会面コラム「青鉛筆」では、野枝が家を出た後の辻について触れ、野枝の以前の恋愛問題を出して「恋の常習犯だとうわさする文学者もいる」というゴシップを報道。
さらに読売は5月5日、6日の2回、「読売文壇」で文芸評論家・中村孤月の「幻影を失つ(っ)た時」を載せた。名指しはせず抽象的な内容だが、「道徳」「共生」「人情」をキーワードに「1人の男が、他の1人の男と共同生活をしている女を連れて行く場合に、その女と男との同意を得なくして連れて行く時には、全然略奪者の行為である」などと暗に大杉を批判した。
「日録・大杉栄伝」によれば、この記事に大杉が抗議。中村が大杉を訪れて協議した結果、歌人で当時読売の社会部長だった土岐善麿(哀果)が自分で大杉を取材、執筆し、5月9日付朝刊社会面コラム「豆えん筆」に載せた。
記事は「(大杉は)大いに抗議を申し込み、ついにあの文章のうち、『大杉、伊藤両者にアテつけた項だけは、全く勘違いにつき全部を取り消すということにさせた』という」と、人ごとのような内容だった。