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 河西から見た福留の魅力は、リストの柔らかさ、ミートの巧さである。スイングを見て、右の腰で投球を迎え、鋭く回転させてバットを振り切る姿が印象に残った。スイングが速いから、引き付けると打球は一気にスタンドまで飛ぶ。惚れ惚れするほどの打者だった。

 そんな福留への思いとは別に、交渉はやはり難航した。ドラフト会議3日後の11月25日、大阪で行われた一回目の交渉は、近鉄球団社長、佐々木監督など首脳が勢ぞろいして熱意をこめて語ったが、福留の意志は固い。周囲の喧騒とは別に河西は終始冷静だった。彼は固い表情の福留が気になって優しく声を掛けた。

「こっちもな、無理矢理入り口をこじ開けたんやから、せめて座敷までは上げてくれや。この年寄りが入り込めるだけの間口だけは開けといてほしいんや」

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 このとき福留の眼に、わずかに変化が起こった。

「なあ、ええやろ」 

 福留は、河西の一心に見つめる目を見て、「はい」と小さいがはっきりした声で返事した。

最終通告になるはずだった2回目の交渉、河西が粘る

 2回目の交渉(11月29日)は、福留の故郷鹿児島で行われた。じつはこの席で福留サイドは「日本生命入り」を通告し、最終交渉になる筈だった。

 ここでは河西と後輩の堀井和人スカウトが交渉を行なった。前日鹿児島入りした河西は食事には手をつけなかった。彼は持病のヘルニアが悪化し手術も延期したうえで交渉に臨んでいたのである。体調も芳しくなかった。

 この席で近鉄側は条件提示も行うが、それだけに断られる可能性もある。河西の望みは、誠心誠意を尽くし、入団拒否をされずに、再度大阪で交渉を継続させることだった。

 このとき河西の懐には辞表が忍ばせてあった。

 福留の実家は、鹿屋にある。太平洋戦争で特攻隊が飛び立った地である。

 河西も42年9月に明治大学を繰り上げ卒業して、兵役に行った。東シナ海を輸送船で進むとき、敵の潜水艦に撃沈され、8時間漂流して奇蹟的に救われた。僅かな可能性でも決してあきらめない交渉力は、このときの経験が土台にあった。

 2回目の交渉では、河西も粘りを見せた。いきなり辛い顔を見せて、福留に語った。

「腰が痛うてのお。わしは飛行機が苦手だけど、君に会いたい一心で乗って来た」

 このとき福留の父親も、つい河西の言葉に引き込まれてしまった。

「いやじつは私も苦手でしてね」

 凍り付いた場が和やかになった。河西はすかさず語り掛ける。

「福留君、君のおばあちゃんは年はいくつや」

 福留も「73歳です」と口を開いた。河西は「そうかあ、ワシのほうが二つ上やな」と言うと、会話が進む。このとき近鉄側の提示した条件は、契約金、年俸、出来高払いとすべて高校生には破格だった。