「な、もう一回ええやろ」
しかし福留の意志は揺るがない。河西は彼の信念の強さに本当に賢い青年だと感心もした。
河西は笑みを絶やさず「な、もう一回ええやろ」と福留サイドに、大阪での交渉を約束させることに成功した。彼の熱意に、福留サイドもきっぱり断ることができなかったのである。さらに河西はたたみかける。
「な、気持ちは傾いたか」
という言葉にそれまで固かった福留の表情が崩れ、笑みを洩らした。
交渉が終わり、タクシーに乗り込むときだった
交渉が終わり、タクシーに乗り込むときだった。それまでしっかり歩いていた河西が、突然気を失って倒れた。福留の父親と堀井スカウトが体を支えた。このとき堀井が小さな声で聞いた。
「河さん、三味線上手いでんな」
河西の絶妙の演技だと思ったのである。だが河西は苦しい息遣いで「違うわい。ほんまにしんどいんや」と答えるのが精いっぱいだった。精根尽き果てていたのである。
交渉は12月まで継続したものの、福留は初心を貫いて日本生命入りをして、2年後の指名を待つことになった。その後河西は微熱が続き、さらに腹部大動脈りゅうを起こし、入退院を繰り返すことになる。
「通りすがりで美人とすれ違うやろ。きれいだなと一瞬振り返る。これなんや」
河西はスピードガン、ストップウォッチを使わない、眼力を大事にするスカウトだった。
「150キロ出ても、140キロのほうがええ奴がいる。球のキレは測定できない」
彼は「野球足」が存在するとも説いた。タイムで測る足の速さと違って、野球にはずるい走塁、上手い走塁が存在する。
河西は選手を判断するときは、第一印象を大切にした。
「通りすがりで美人とすれ違うやろ。きれいだなと一瞬振り返る。これなんや。これ以上、近づき、追いかけると、最初の輝いた印象が吹き飛び、細かい点が気になり全体像を見失う」
もう一つユニークなモットーがあった。高校生を見るときは、「お母さんの尻を見ろ」だ。今は体が細くても、男の子はいずれお母さんの体型になることを経験で知っていたのである。阪神の藤田平は、選抜大会で打率4割を記録したものの、体の細さのため獲得を見送る球団が多かったが、河西は、藤田の母親のがっちりした体格を見て獲得に踏み切ったのだ。入団後、藤田は逞しい体になった。河西とはそんなスカウトだった。