ドラフト会議も近づいた。注目株は、高松商のスラッガー浅野翔吾だろう。高校通算67本塁打、俊足に強肩で10球団が事前の挨拶に訪れた。競合は必至で、どこが当たりくじを引くだろうか。

 そんな注目株の選手を思うたびに、甦る光景がある。1995年11月22日のドラフト会議である。

ドラフト「最大の目玉」だった18歳の高校生・福留孝介

第67回選抜高校野球・銚子商(千葉)戦でホームランを打つ福留孝介 ©️時事通信社

 最大の目玉はPL学園高校の内野手福留孝介(中日、阪神)であった。彼はこの年の選抜大会ではバックスクリーンへの本塁打を放ち、夏の大阪府予選では7本塁打を記録し、清原和博(西武、巨人、オリックス)の5本を抜いた。

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 夏の甲子園大会では2打席連続本塁打で、10年に一人の逸材と言われた。だが福留は巨人か中日でなければ、日本生命に行くという決意を打ち出していた。

 だがそれでも各球団はこの逸材を諦める筈はない。7球団が1位指名に踏み切り、当たりくじを引いたのは、近鉄監督の佐々木恭介だった。このときの雄叫びは今も語り継がれる。

指名順位1位で7球団が競合するなか近鉄が交渉権を獲得。会見するPL時代の福留孝介 ©️時事通信社

 この光景を見ていた近鉄スカウト陣は肩を落とした。事前の調査で福留は絶対に来ないと知っていたからである。指名は親会社の意向だったのである。まさか抽選に当たるとは思っていなかったチーフスカウトの河西俊雄は「大変なことになったなあ」と呟いた。  

 河西は、戦後すぐに南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の名外野手として3年連続盗塁王に輝き、黄金時代の南海を支えた一人である。

 58年から移籍先の阪神タイガースでスカウトを務め、スカウト歴は40年近い屈指のベテランだ。阪神時代は、遠井吾郎、江夏豊、藤田平、山本和行、掛布雅之らを手掛けて来た。

 その後近鉄へ移っても、大石大二郎、阿波野秀幸、野茂英雄、金村義明、中村紀洋ら数々の名選手をスカウトした。人呼んで「河西のある所に優勝あり」。また粘り強い交渉で「スッポンの河さん」とも呼ばれた。 

 この高校球界のスターと75歳のベテランスカウトの物語を拙著『スッポンの河さん―伝説のスカウト河西俊雄―』(集英社文庫)を参考に、書いてみたい。

ドラフトから3日後、1回目の交渉の日がやってきた

 河西はこれまでも難攻不落と呼ばれる選手を口説いて、入団させてきた。しかし海千山千の河西の交渉力を以てしても、今回の指名には明るい見通しはなかった。

 事前にPL学園監督(当時)の中村順司に接触した近鉄スカウトもいたが、「120%行かない。本人の意志が固すぎて無理ですよ」という返事ももらっていた。

 だがスカウトとして「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいかない。突破口が見つかるなら、そこから攻め入りたい。