文一郎の死の床の枕もとにはミホの結婚写真があった。寝ついてからも繰り返し取り出して眺めていたために手垢で汚れた写真を、文一郎は見舞い客が来るたびに見せていたという。
その話を伝え聞いたとき、ミホは平静でいられなかったに違いない。島尾との結婚生活は、父が望んだような幸福なものではなかったのだ。文一郎の死の1年後、島尾は日記に、ミホが発したこんな言葉を書きとめている。
「死ニタイ、シンドイ、結婚シタ事ヲクヤム」
「ジュウ(父)ヲ捨テテ来タバチカモ」
ミホが結婚写真を嫌ったのは、それが父を孤独の中で死なせたことを思い起こさせるものだったからかもしれない。父を捨てたという思いは、その後のミホの人生に大きく影を落とすことになる。
手紙によって愛を育み…ミホと島尾が出会った頃
加計呂麻島の養父母の元に戻ったミホが押角国民学校の代用教員になったのは、1944(昭和19)年11月、25歳のときである。養母の吉鶴はその4か月前に心臓発作で急死していた。
ミホが教師になったのと同じ月、27歳の島尾敏雄が第18震洋隊183名の隊長として島にやってくる。海軍予備学生出身の少尉で、翌月には中尉に昇進した。
島尾の部隊は、ミホの暮らす押角と岬をはさんで隣り合う小さな集落に駐屯した。12月に初めて顔を合わせた二人は、互いを思い合うようになり、手紙によって愛を育んでいく。
手紙を運んだのは島尾の部下の兵曹である。60通を超える手紙が残っているが、その最初は、1945(昭和20)年1月に島尾が書いた〈お変りはありませんでしたか お伺ひいたします 御老体は御元気ですか 案じ居ります〉という文章で始まるものだ。知り合って1か月、まだ恋人とは言えないころの手紙で、〈御老体〉とはこのとき70代だったミホの養父・大平文一郎のことである。
文一郎は中国語に堪能で、日記を漢文で書き、自作の漢詩を唐音で口ずさむ教養人だった。九州帝大で東洋史を専攻した島尾は、前述したように、文一郎の蔵書を借りにときどき大平家を訪れるようになる。ミホと恋仲になる前から、文一郎との交流は始まっていた。
「特攻戦が下令されるまでは、いわばのんきな生活でありました」(「特攻隊員の生活」)
加計呂麻島に駐屯した9か月を、島尾はのちにこう回想している。特攻作戦のためだけに島にやってきた島尾の部隊は、兵舎を建て、震洋艇を格納するための壕を掘り終わると、あとはほとんどやることがなくなった。