1974年に刊行した『海辺の生と死』で南日本文学賞、田村俊子賞を受賞した作家の島尾ミホ。奄美大島で生まれた彼女は、2歳の時に加計呂麻島の大平文一郎・吉鶴夫妻の養女になり、46年にのちに作家となる島尾敏雄と結婚した。

 養父がこの世を去るまで大事に持ち続けた自分の結婚写真を、ミホが嫌ったのはなぜなのか――。

 女性の物書きとその父との関係に焦点を当てた、梯久美子さんのノンフィクション『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)より一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/渡辺和子編を読む

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戦時中の島尾ミホ かごしま近代文学館提供

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「死ニタイ、シンドイ、結婚シタ事ヲクヤム」

 ミホが暮らしていたのは加計呂麻島の押角(おしかく)という集落である。

 父の大平文一郎は琉球士族を祖先にもつ旧家の出身で、深い見識と穏やかな人柄で集落の人々から敬愛されていた。漢籍をはじめ膨大な蔵書を有し、押角に隣接する集落に駐屯していた島尾は、書物を借りに大平家の屋敷をたびたび訪れた。

 文一郎について、島尾はこう記している。

 口のまわりから顎のあたりにかけての白いひげ、鼻梁(びりよう)の高い品のよい顔立ちといい、何よりも目が大きく深く、やさしさにあふれていた。最初の印象で狷介(けんかい)な漢学者か識見の高い読書人だと思った私は、こんな離島のそのまた離れの草深い田舎に住む老人とはどうしても思えなかった。(「私の中の日本人」より)

 文一郎は人々から「ウンジュ」と呼ばれていた。当時押角に住んでいた女性に意味を尋ねると「漢字で書けば“恩慈父”でしょう。ウンジュのジュは島の言葉で父のことです」とのことだった。この呼び名からも、集落にとって文一郎がどのような存在だったかがわかる。ミホはその一人娘として大切に育てられたが、実子ではなく養女だった。

 1歳になる前に母親を病気で亡くし、兄とともに母方の親類に預けられていたミホは、1921(大正10)年、2歳のときに大平文一郎・吉鶴(きちづる)夫妻に引き取られた。吉鶴はミホの実父の姉で、ミホにとっては伯母にあたる。大平夫妻は子供がなく、母親を失ったミホを養女にと望んだのだ。

 60代での随筆で、ミホは〈一心同体という言葉がありますが、私共の親子のかかわりの深さはそんな状態だったかも知れないと思ったりします〉(「わが原郷」)と書いているが、生涯にわたって心のよりどころであった文一郎と血のつながりはない。

 養母の吉鶴は戦時中に亡くなった。ミホが島尾に嫁ぐために家を出ていけば、すでに80歳近い高齢だった文一郎は一人になってしまう。ミホが養女になったのは、いずれ婿を取って家を継ぎ、文一郎夫妻の老後の面倒を見ることが前提だった。だが文一郎は愛する娘の幸福を思い、こころよく島尾のもとに送り出したのだった。

 ミホが島を去って4年後、文一郎が死去する。当時の奄美群島は米国の軍政下にあり、ミホは最期をみとることも葬儀に参列することもできなかった。