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「じゃまだったの。死んでもいいと思ったわ」養父の死の床には…恋に目がくらんだ娘がした“恐ろしい仕打ち”とは

『この父ありて 娘たちの歳月』より#2

2022/10/31

source : 文藝出版局

genre : ライフ, 社会, 政治, 読書, 歴史

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女性との情事を綴った夫の日記を読んでしまい…

 島尾敏雄とミホの結婚生活は神戸で始まった。

 島尾は出撃に至らなかった特攻を作品化し、作家として戦後を生きようとする。結婚3年目に長男を、5年目に長女を授かるが、島尾の心は家の外に向き、ミホは島尾の女性関係に傷つけられるようになっていった。

 島尾の小説は次第に中央文壇に認められ、1948(昭和23)年に初の小説集『単独旅行者』を刊行。50(同25)年2月には「出孤島記」で第1回戦後文学賞を受賞する。

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 文一郎が死去したという電報が届いたのは、受賞の知らせがあった日の夜だった。46(同21)年2月に本土と行政分離された奄美は、このときまだ米国の軍政下にあり、ミホは父の葬儀に駆けつけることもできなかった。

 島尾は職業作家として立つことを決意し、52(同27)年3月に一家で上京した。東京では作家仲間との付き合いも増え、3日にあげず外泊を繰り返すようになる。この時期に島尾が自分たち夫婦をモデルに書いた小説「帰巣者の憂鬱」では、夜遅く出かけようとする夫を懸命に引きとめる妻が描かれる。夫に振り払われ、一瞬正気を失った妻は〈妙に幼い声〉で〈アンマー〉と叫ぶ。アンマとは奄美の言葉で母親のことである。

 どんなときも自分を愛し守ってくれた養父母はすでになく、故郷を捨てて選んだ男は自分を振り切って出ていく。ミホの精神は決壊する寸前だった。

 ある女性との情事を綴った島尾の日記を読んでミホが狂乱の発作を起こしたのは、1954(昭和29)年9月のことである。

 その日から、ミホは家事も子供たちの世話も放棄して昼夜の別なく島尾の不実をなじり、女性との交渉の細部を詮索するようになった。夜中に家を出て電車に飛び込もうとしたり首をくくろうとしたりするため、島尾は一時も目を離すことができない。

 島尾はミホを慶応大学病院の神経科に入院させるが、脱走騒ぎを起こして退院させられてしまう。生活は行き詰まり、島尾は心中を考えるところまで追いつめられた。

 愛人の女性が家を訪ねてきたことから症状はますます悪化し、ミホは千葉県市川市にある国立国府台病院精神科の閉鎖病棟に入院することになる。島尾は子供たちを親戚に預け、妻とともに病棟の中で暮らすことを選んだ。