父への「身をよじるほどの申し訳なさ」
ミホが日記を見たときから入院までを描いた島尾の作品が、「私小説の極北」と呼ばれる『死の棘』である。その中に、ミホが加計呂麻島に帰って母(アンマ)と父(ジユウ)に会った夢を見た話をする場面がある。そこでミホが話している内容は、島尾の日記にもあり、事実をほぼそのまま書いたと思われる。それはこんな夢だ。
ミホが家に帰ると、庭に大きな穴があり、死んだはずの養父母が他の死者たちと一緒にそこに入っている。養母は怖しい顔をして、ここに来てはいけないとミホに言う。
「アンマは疎開小屋に行けと言ったわ。(中略)あたしはなんとおそろしいことを平気でやっていたのでしょう。あの戦争中のとき海軍基地にいたあなたがいつやってくるかわからなかったし、ジュウがじゃまだったの。だからジュウひとりをあんな不便な疎開小屋に追いやっていたのだわ。死んでもいいと思ったわ。アンマはそこにあたしを行かせたのです」(『死の棘』第四章「日は日に」より)
極限状況での恋愛から10年近くがたち、島尾の裏切りがわかったとき、熱情に目がくらんだ自分がしたことがよみがえったのである。血のつながらない自分を誰よりも慈しんでくれた文一郎にした仕打ちを夢の中で指摘したのは、文一郎を残して先に逝った養母の吉鶴だった。
「……みんな天罰です。みんなあたしがじぶんでしたことのむくいです。あたしがあんな神さまのようなジュウを犠牲にしてえらんだあなたからはこんなひどいめにあわされたのです」(同前)
自分がどんな勝手をしようと、幸福になりさえすれば父は喜んでくれるとミホは信じていた。だが、父を捨てて選んだ男は自分を裏切った。ミホが狂乱した理由は単なる嫉妬ではなく、そこには孤独の中で死なせてしまった父への、身をよじるほどの申し訳なさがあった。
入院中のミホはしきりに島へ帰りたいと言うようになり、島尾は一家で奄美に移り住むことを決意する。島の暮らしの中でミホは少しずつ精神の安定を取り戻し、やがて文章を綴るようになった。そして54歳のとき、幼少時代を回想した『海辺の生と死』を刊行する。
そこでは文一郎と吉鶴は養父母ではなく、実の両親として描かれている。全身で愛情を享受した日々を、細密な筆でよみがえらせたこの作品で、ミホは作家として出発したのである。