「俺は入院するまでモルヒネは打ったことがなかったんだ。モルヒネと同じアヘン系の薬物であるヘロインは、昔、一度だけ経験したんだけど、大量に打たれたもんだから死ぬ思いをして懲りたもんだから、それ以来手を出さなかった。でも、周りを見ていると、みんなやめられなくなっちゃうんだよ。それは、マリファナや覚醒剤と違って、“一人の薬物”だというのが大きいらしい。マリファナや覚醒剤は、異性と一緒に使うと性的快楽が得られる。でも、ヘロインをはじめとするアヘン系の薬物は、一人で処理しても、ものすごい性的快楽と多幸感が味わえると聞いたのを覚えていてね。だから病院でモルヒネを打つことになった時には、どれだけ気持ちよくなれるのか内心楽しみにしていたんだけど、驚くぐらいスッと痛みが引いて、あとはひたすら眠いだけ。気持ちよくもなんともないんだよ。麻薬として流通しているモルヒネは不純物がいっぱい入っているんだけど、とことん精製された医療用の薬剤は、やっぱり質が全然違うんだなと実感しましたよ」
前世の報いではなく、現世の報い?
稀有な体験は過去を思い出させた。10代の頃、覚醒剤を削る手伝いをやっていた時の経験。
「『ガツンと効かせられるように』って防虫剤として使われる樟脳や、家畜の牛馬を発情させるために使う薬を削って混ぜたりしてたんだよ。そりゃ体に悪いなんてもんじゃないけど、すごく評判が良かったらしくて。実は、あの不純物が“大事”だったんだと、今になって初めて気づきましたね(笑)。まあ、薬物のことも含め、好き放題生きてきたからね。シモの三重苦や脊椎骨折でのたうち回っている時に、つらさのあまり『前世の報いかな』ってつぶやいたら、妻に『現世です』ってハッキリ言われたんだけど、何も言い返せなかった(笑)」
『ハイドロサルファイト・コンク』の書名は、10代の頃に働いていた反物工場で使っていた漂白剤の名前から取った。苦痛から逃れるために、自身を真っ白にしていく。その感覚に重ね合わせたのだという。
《背骨が崩壊した六十半ばの癌患者に、いったいどのような仕事ができるというのか。小説を書くしかないではないか。つまり心の苦痛をなかったことにして、真っ白になって執筆をするしかない。》(P357)
闘病を経て真っ白になった作家。この先、その手が紡ぎ出すのは、いったいどのような物語なのだろうか。