1ページ目から読む
2/5ページ目

 そうした関係を築いた上で、今度はナイフです。これは、批評性と言い換えてもいいと思います。まず、完璧な人間はいません。人は誰しも、長所もあれば短所もあります。また著名人であればあるほど、賞賛の声もあれば、批判だってあります。その人の懐に入って普段は見せない素顔を撮っただけでは不十分で、その上で批評を加えることが重要です。その場合、後からナレーションで批評するのはいただけません。やはり現場で、自らの言葉で、その人への疑問点をしっかりとぶつけることです。

『情熱大陸』で秋元康さんにぶつけた質問

 そうした私の「花束とナイフ」の姿勢が、最も色濃く出たのが2007年に放送した『情熱大陸』の秋元康さんの回でした。これは私の企画ではなく、プロデューサーから「大島に撮ってほしい」と言われた仕事です。その頃私は、番組の常連ディレクターの中では「やっかいな大物担当」のような感じになっていました。秋元さんは言わずと知れた希代のヒットメーカーであり、当時はAKBのプロジェクトをスタートさせ話題になりはじめていた頃でした。

秋元康氏 ©文藝春秋

 しかし正直に言うと、私は秋元さんにあまり良い印象を持っていませんでした。「そんな僕がディレクターでもいいんですか?」と中野プロデューサーに伝えると、「大島くんはそう言うだろうと思っていたよ。でもだからこそ撮ってほしい」と言われました。そんな風に言われたら、がんばるしかありません。

ADVERTISEMENT

 私はある仮説というか、番組の裏テーマを考えました。それは、「ここ20年、世に出る表現物全般について、優れたもの=ヒットするもの(金が儲かるもの)と多くの人が感じるようになったのだとしたら、それは秋元康のせいではないか?」ということでした。理屈っぽいですね。さすがにこれをいきなり秋元さん本人には言えませんし、私の個人的な考えなので、ファクトとして提示することもできません。

放送後、メディア関係者から大きな反響が

 だからこそ「裏テーマ」であり、私自身の中に常にその問いを持って取材をしました。この時のナイフは、インタビューでこんな質問をしたことです。「秋元さんは人間のタイプとして、どちらに近いですか? 1、ピカソ 2、広告代理店マン」これに対する秋元さんの答えは、「ピカソになりたい広告代理店マンかな。でも『なりたい』と思った時点でダメなんだよ」でした。見事なものです。

 私は取材を経て、秋元さんのプロ意識の高さや勉強熱心さに頭が下がる思いでした。良い印象を持っていなかったのが、大きく変化しました。ただ、やはりマイナー界の住人たる私にとっては、距離のある人という印象は変わりません。

 番組は、放送後に大きな反響がありました。一般の視聴者の方というより、テレビや出版など、メディア関係者からの声が多く届きました。そうした「プロ」からの熱い反響を聞き、なんとか30代で目標にしていた「大島印」の番組を作れるようになったと感じました。