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 そんな歴史的背景を踏まえれば、ソウル大会は「お家芸」にとって五輪史上最大のピンチだった。地元韓国の熱狂的な応援に押され、東西両諸国は3大会ぶりにそろって参加。会場全体が盛り上がる中、6日間連続で勝てない日本は沈んでいた。最終日に全てを託されたのが、95キロ超級の斉藤仁だった。

右膝は前年に負った大けが、釣り手の左肘には古傷

 日本男子監督だった上村春樹氏(現・講道館館長)は決戦前夜、選手村の宿舎で「明日は頼む」と短い言葉で大黒柱にすがった。すると斉藤は部屋中に響き渡るような張りのある声で言った。

「先輩、このピリピリとした雰囲気、たまんないっすよ!」

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 上村氏は「あの言葉は忘れられない。我々はあっけにとられたと同時に、救われたというか励まされた。まあ、本心だったのかどうかは分からないが……」と苦笑いする。「剛毅木訥」と美しきやせ我慢。昭和に終焉が訪れる前年の、セピア色に輝くメモリーだ。

 斉藤は当時27歳で全盛期を過ぎ、ベテランの域に入っていた。前年に負った右膝の大けがは完治せず、釣り手の左肘に古傷も抱えていた。いわば満身創痍で本調子には程遠く、ひたすら前に出る気迫の柔道に徹するしかなかった。

斉藤仁氏 ©文藝春秋

崖っぷちの日本柔道を救った真のヒーロー

 極度の重圧と不安要素に包まれた決戦当日。選手村からのバスで会場に到着すると、各国の観客など既に大勢の人だかりだった。同行したチーム関係者によると、選手入り口までは約500メートルあった。上気した表情の斉藤が胸を張って歩くと、目の前の道がきれいにすーっと開けたという。

「彼のオーラでみんなが遠のいた。試合前なのに、まるでビクトリーロードを歩いているようだった。あの時の斉藤君は本当に格好良かった」

 まさに鬼の形相で立ち向かい、斉藤は金メダルを死守した。上村氏は「このまま最後も敗れたら、我々は日本に帰っていいのだろうか」と指導陣と真剣に話し合ったほどで、崖っぷちの日本柔道を救ってみせた。「山下泰裕」という金看板の陰でも闘志の炎を絶やさなかった執念の男が、真のヒーローとなった瞬間だった。

金メダルを獲得した斉藤仁氏 ©文藝春秋

 表彰台の頂点に立ち、笑顔どころか顔をくしゃくしゃにさせて泣きじゃくった。その姿は何度見ても、鼻の奥が熱くなる名場面だ。当時の主役は10年ほど前に「日程的に軽い階級から始まり、最後が俺だった。もしこれが逆に重い方からだったら話は全く違っただろう。今後も軽量級から進む日程が続くだろうから、重量級は大変だぞ」と述懐している。その大変なポジションを愛息が担うことになるとは、何という運命の巡り合わせか。