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「斉藤先生が帰ってきたみたいだな…」“柔道界の超新星”斉藤立(20)が受け継ぐ「日本柔道の矜持と剛毅木訥の4文字」《父のライバルでレジェンド・山下泰裕も絶賛》

2022/11/12
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周囲からは「斉藤先生が帰ってきたみたいだな……」との声

 誰からも注目されることは宿命だった。父は1984年ロサンゼルス、88年ソウル大会の95キロ超級で五輪2連覇の斉藤仁。世界選手権は83年モスクワ大会無差別級を制し、全日本選手権は優勝1度で「柔道三冠」の栄誉に輝いた。残した実績もさることながら、ほとばしる気迫そのままに歩んだ生きざまが強烈な光を放つ。そして全柔連強化委員長の要職にいた2015年1月、54歳の若さで逝去。記憶にも記録にも残る人生の早すぎる幕切れに、柔道界は悲嘆に暮れた。そんな無念すぎる無念さが、当時12歳だった次男の立への思慕となる。ひときわ大きな体、顔の輪郭や表情、首を左右に動かす仕草までがそっくりで、周囲からは「斉藤先生が帰ってきたみたいだな……」との声が漏れた。

斉藤仁氏 ©文藝春秋

「エベレストには登ったが、富士山には登っていない」

 こうなると少年への思いはさまざまな感情を乗せて昇華し、柔道に携わる人々がまるで親か家族のような目線で成長を願う。全柔連強化副委員長で日本男子前監督の井上康生氏は「彼自身の強烈なキャラクターもあるし、お父さんから受け継いだキャラクターもある。見た目もかわいいし、とにかく純粋。お母さんが伸び伸びと育ててあげたんだろうなあと勝手ながら感じる。みんなが抱いてきた斉藤先生への思いが、タツルへの思いに変わっている。みんながかわいく思う。必然と偶然が重なり合い、強烈な男が生まれた」と力説した。

 斉藤氏は「剛毅木訥」を座右の銘にしていた。孔子の言行録とされる「論語」に「剛毅木訥、仁に近し……」とあり、くしくも名前の「仁」も入っている。口べたで自分の思いをうまく表現できないものの、志を完遂しようとする強い意志を意味する。今では貴重な「昭和の男」を体現したかのような美しい4文字そのままに、畳で闘った。

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斉藤仁氏 ©文藝春秋

 その言葉通りの生涯だった。世界の頂点に立っても、全日本選手権は83年から3年続けて決勝で山下泰裕に敗戦。「エベレストには登ったが、富士山には登っていない」との名せりふで雪辱に燃えた。「打倒山下」の悲願は果たせなかったものの、88年に最初で最後となる日本一の座をつかむ。この1年が斉藤仁にとって、競技人生で最大のハイライトだった。

五輪史上最大のピンチに託されたのは…

 88年ソウル五輪。日本男子は60キロ級2連覇を確実視された細川伸二に続き、65キロ級の山本洋祐も3位に終わる。71キロ級の古賀稔彦、78キロ級の岡田弘隆と後の世界王者になる新鋭は表彰台に届かず、6階級を終えて全員が頂点を逃した。競技発祥国として「金メダル以外はメダルにあらず」との考えが今とは比較にならないほどの濃度で支配していた時代だ。柔道が五輪正式競技入りした64年東京大会以降(女子はソウル大会から公開競技、92年バルセロナ大会から正式競技)、日本勢は各大会で半数以上の金メダルを占めてきた(実施されなかった68年メキシコ大会、日本がボイコットの80年モスクワ大会を除く)。