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「斉藤先生が帰ってきたみたいだな…」“柔道界の超新星”斉藤立(20)が受け継ぐ「日本柔道の矜持と剛毅木訥の4文字」《父のライバルでレジェンド・山下泰裕も絶賛》

2022/11/12
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2014年に癌が判明 翌15年1月、天国へ

 2004年アテネ、08年北京の五輪2大会で日本男子監督を務めた後、斉藤氏は12年秋から全柔連の強化委員長に就く。翌年には日本女子チームの暴力指導問題発覚に端を発し、全柔連の不祥事が次々と明るみに出た。春先には女子代表指導陣が刷新され、改革を急ぐ世論は初の女性監督抜てきを望むムードが充満した。しかし斉藤氏は北京五輪で総務担当として右腕になってくれた南條充寿氏をジュニアの責任者から引っ張り上げた。いわゆるビッグネームではない人事を発表した全柔連理事会後、強い口調で意図を語った。

「今、この大変な状況で、黙って汗をかけるのは南條しかいねえんだ」

 自らの生きるモットーを貫き、組織の窮地で骨身を削った。

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斉藤仁氏と山下泰裕氏 ©文藝春秋

 激務と心労がたたったのか、翌14年に癌が判明する。会うたびにやせていったが「ダイエットしているんだよ」と作り笑顔でかわされた。15年1月、天国へと旅立った。南條氏はこの頃を思い出すたび「監督をやれと言われた時、『俺がいるから大丈夫だ』と言っておいて、勝手にどこかへ行くなよと……」と、よく声を詰まらせていた。16年リオデジャネイロ五輪では、会場内で首から下げるIDカードの裏に斉藤氏の写真を同じサイズにして重ね合わせた。初日から4日間続けて敗れ、迎えた第5日。女子70キロ級では自ら畳のそばのコーチ席に入り「力を貸してよ、先生。頼むよ」と天井のはるか向こうの空へと念じ、田知本遥の金メダルへと願いは通じた。

「もし父が生きていたら」と問われると…

 選手、指導者として「斉藤仁」に接した人々は数え切れない。それぞれの思い入れが今、斉藤立に自然と注がれる。病室で息子にかけた最後の言葉が「稽古に行けよ」―。こんな場面を想像するだけで、世代を超えて胸が揺さぶられる。国士舘大時代から斉藤氏の弟子として薫陶を受けた日本男子の鈴木桂治監督は、斉藤立を導く立場だ。

斉藤仁氏 ©文藝春秋

「重量級らしい重量級。飯はいっぱい食うし、すぐに汗をかくし、すぐにきつそうな顔をする。足はでかいし、体重は重い」と笑いながら、「斉藤先生が亡くなってから、タツルの柔道に対する向かい方は変わった」と真剣な表情で証言する。

 世界選手権決勝で敗れた直後、斉藤は「もし父が生きていたら」と問われ、即答した。

「怒られると思う。想像もしたくない」

 24年パリ五輪まで2年を切った。男子100キロ超級の日本代表争いはこれからだ。だが最重量級が個人戦のラストを飾る日程は決まっている。父が最高に輝いた同じ舞台に立つその日まで、日本柔道の矜持と「剛毅木訥」を受け継ぐ闘いは続いていく。

「斉藤先生が帰ってきたみたいだな…」“柔道界の超新星”斉藤立(20)が受け継ぐ「日本柔道の矜持と剛毅木訥の4文字」《父のライバルでレジェンド・山下泰裕も絶賛》

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