森岡 足の痺れや痛みが消えず、原因もわからない。約1カ月あまりのワールドカップの記憶は曖昧なんです。本(『すべての瞬間を生きる PLAY EVERY MOMENT』)を作るにあたって、思い出してみたけれど、自分のことで精いっぱいで、チームやチームメイトのことを考える余裕がなかった。キャプテン失格でしたね。
「『でも』が多い。言い訳から入るな」という長谷川健太監督の叱責
――2002年シーズンの大半はリハビリを続けたのち、2003年にはジーコ率いる日本代表にも復帰しましたが、定着には至りませんでした。所属する清水エスパルスも成績が低迷。2007年には当時J2だった京都サンガへ移籍することに。
森岡 代表については監督の求める選手ではなかったということだと感じていました。じゃあ、クラブでと思っていたのですが、エスパルスでも監督が代わり、過渡期だったのでしょう。勝利することの難しさを痛感する毎日で、負傷が癒えてピッチに戻っても、かつてのようにプレーできていないもどかしさはありました。ある試合の敗戦後にトイレの壁を蹴り上げて破損させてしまい、数年間ずっと抱えていた感情を爆発させてしまった。
当時の長谷川健太監督から「でもが多い。言い訳から入るな」と叱責された言葉は今でも心に刺さっています。うまくいかないとき、自分ではなく、他人に矢印を向けてしまう。僕の弱さを言い当てられたんです。
――京都への移籍は、清水での出場機会が減少していたことが原因だったのでしょうか?
森岡 確かに出場機会は減少していましたが、充実感もありました。そのうえ清水からも契約オファーを頂いたのですが、自分にとって居心地が良すぎる清水エスパルスという場所にこのままずっと居ていいのか? という気持ちが強かったんです。新たな環境で挑戦したいと。移籍金なしで移籍できるタイミングでもあったので、移籍を決断しました。すぐにオファーが来ると思っていたのに、そうはいかなかった。京都から声をかけてもらったとき本当に安堵しましたね。
――所属するクラブがなければ、本人の意志とは別に引退せざるを得ないですからね。
森岡 J1からJ2にカテゴリーは下がりましたが、試合数は多く、タフなリーグでした。そういう環境で上を目指すチームメイトたちも含めて、新鮮な環境で気持ちを切り替えることができたと感じています。夏にひざを痛めたんです。そのときトレーナーから『隆三の筋力はママさんバレーをやっている人と変わらないよ』と指摘されました。プロアスリートの筋力じゃないと。リハビリに費やした2002年以降、思うようにプレーできないことで、筋トレやランニングなど自分を追い込み続けた結果、筋力が落ちていたんですね。
筋力が落ちているから、かつてのようにプレーができなかったわけです。身体の不具合があっても精神力や頭で乗り越えようと自分を追い込んでしまう選手がいるんだというトレーナーの話に、「それは俺だ」と納得しました。