トルシエジャパンの“フラット3”の申し子として臨んだ、2002年日韓ワールドカップ初戦・ベルギー戦。接触プレーにより足に違和感を覚えて戦線離脱すると、再びワールドカップの舞台に戻ることはなかった――。あの日何が起きていたのだろうか。自著『すべての瞬間を生きる PLAY EVERY MOMENT』より一部抜粋し、当時の偽らざる心境をお届けする。(全3回の3回目/#1、#2を読む)
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当時のことをメンバーは覚えているだろうか。私は不思議と思い出せない
6月4日、FIFAワールドカップ2002日韓大会、グループHの日本対ベルギー戦
が埼玉スタジアムで行われる。
ワールドカップ公式アンセムが流れるなか、キャプテンマークを巻き、ピッチへ向かう。
真っ青に染まったスタジアムの光景と地響きのような歓声は、私のワールドカップの記憶として強く刻まれているシーンのひとつだ。
この初戦まで、個人的にはメディアから入ってくる情報を意識的にコントロールし、遮断していた。
過熱する世間の渦に必要以上に心を乱されないよう、影響を受けやすい自分なりの準備だった。その結果、良い意味でリラックスできているという実感があった。
試合前のロッカーでのミーティング、トルシエ監督の話や選手同士の会話を、当時のことをメンバーは覚えているだろうか。
私は不思議と思い出せない。覚えているのは、幾度となく反復し確認してきたことを、その場でも熱く冷静に反芻していたことだ。
いざキックオフされれば、いつものゲーム感覚が生まれると思っていた。
ところが、これがワールドカップなのだろう。キックオフ直後は、チームも私も硬さがあったことは否めない。スローインの場面のこと。左のワイドに位置するシンジ(小野伸二)が、自陣の深いところからボールを投げようとしていた。
私はボールを受けられると思いつつ、逆サイドに展開しようと考えた。シンジも同じように思ったからこそ、そんなメッセージのあるボールが私に飛んできた。
すると、そこへベルギーの前線の選手がアプローチにくる。
通常ならば、最初の立ち位置で、ある程度先手を取っていることもあり、「こちらがミスをしなければ、相手のアプローチは届かない」と冷静にボールを処理して展開できる。ところが、そのときは必要以上に相手のプレスにあわててしまい、サイドチェンジのパスを出せず、中途半端なクリアボールを蹴り、ピンチを招いてしまった。
0対0で終わった前半。そして後半開始早々、ついにゲームは動き出した
ゲーム中、自分を客観視できるかどうかは大事なことだ。