森岡 2007年、京都のJ1昇格が決まったときですね。決定した試合後に自分でも驚くほど涙が流れました。アジアカップで優勝しても泣かなかったのに。やっと解放された、報われたという気持ちになれました。『クローズ』という漫画のなかに、「九頭神竜男が最強の男なら、坊屋春道は最高の男よ! たかが最強程度で最高に勝てるわけがねーだろうが!」という言葉があるんですが、僕はずっと「最強より最高」を目指して来たことを確信しました。
世間的な地位の高さじゃなくて、自分のなかでの一番上を目指してきたんだと。自分の最高と社会的な成功が重なったのが、日本代表でした。そこで躓いたあと、過去の最強だった自分を追い続けていた。でも、京都へ来て、ある意味日本代表時代よりもサッカーに向き合える時間を過ごせました。
――カテゴリーを下げて、このままドロップアウトしたくないという意地もあったのでしょうか?
森岡 周囲がどう思うかは気にならなくて、とにかく、『自分史上の最高』を目指していましたね。若い選手の『森岡さん、全然ダメじゃん』という声が聞こえても動揺することはなかったですね。それで昇格という結果に貢献できた。この手応えは大きかったです。J1での2008年シーズンはなかなか試合に出られなかったけれど、先発を競い合うなかでモガクことに充実感を味わっていました。
まあそれで、夏場に熱中症で倒れるわけです。そのとき思ったんですよね。あとプロとして夏を何回過ごせるのか? と。京都の地獄のような暑さすら愛おしく思えるわけです。そんなとき、クラブから『来年は選手としての契約更新はできない』と告げられました。
反発というよりも、『京都でこの仲間と過ごせるのもあとわずか』という気持ちで、さらに1日1日が輝いて見えたし、練習のワンセッション、ワンプレーが貴重なものになりました。そこへ向かう準備も大切な時間になります。だからこそ、サッカーを突き詰めた毎日を過ごせました。
「笛が鳴った瞬間に『あぁ、これで終わろう』と自然と思えた」
――そのときは引退を考えていたのですか?
森岡 一切考えていませんでした。移籍先を探そうと初めて代理人の方にお願いしていましたから。でも、J1残留が決まった試合で、クローザーとしてピッチに送り出されて、試合を終えた瞬間、笛が鳴った瞬間に、「ああ、これで終わろう」って自然と思えたんです。不思議なくらいスッキリとした気持ちで引退を決意できました。
――引退後は、京都サンガのトップチームのコーチ、U-18チームの監督を経て、2017年にはJ3のガイナーレ鳥取の監督に就任されましたが、2シーズン目の途中で解任となりました。