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 それはともかく、アンスコムは1937年にオックスフォード大学のセントヒューズコレッジに入学し、古典学コースで学んだ。母親が古典語の教師であったため、大学に入る前からラテン語やギリシア語を習得していた。

 10代早くにカトリック信仰に目覚め、大学に入るとすぐに親の反対を押し切ってカトリック教徒になった。また、この学部生の頃にフットやマードック、ミジリーらとも知り合いになった。

 学部では好きなこと以外は勉強せず、卒業試験では哲学の一分野以外は惨憺たる出来だったが、できた部分はあまりに優秀だったため結局一等(First)で卒業したという(注4)。

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 アンスコムは学部を卒業するとケンブリッジ大学で研究員となり(1942~46年)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義やセミナーに顔を出すようになる。周知のように、彼女は後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を英訳し、彼の正統な弟子の一人と見なされるようになった。

 その彼女が戦後にサマヴィルコレッジのフェロー(編注:日本の大学では教員に当たるポスト)としてオックスフォードに戻ってくると、ライルやオースティンが幅を利かせており、とりわけアンスコムによって「ウィトゲンシュタインの劣化コピー」と見なされたオースティンは、しばしば彼女の憤怒の源泉になっていたようだ。

アンスコムが戦後にフェローをしていたサマヴィルコレッジ。当時は女子学生だけだった。彼女は1970年までフェローを務め,その後ケンブリッジ大学の哲学教授になった。

アンスコムはなぜそこまでオースティンを嫌ったのか?

 哲学者のマリー・ウォーノックの自伝によると、アンスコムはオースティンを蛇蝎のごとく嫌っていた。

 1924年生まれのウォーノック(旧姓ウィルソン)は、アンスコムより5歳ほど年下で、1942年にオックスフォード大学のレディマーガレットホールに入学したときにはアンスコムはすでにケンブリッジの研究員になっていた。だが、戦後にウォーノックが一時中断していた古典学コースに復学すると、まもなく彼女は友人を介してアンスコムと知り合いになった。

 ウォーノックが哲学をやりたいと考えていることを知ったアンスコムは、彼女を「オックスフォード哲学の害悪」から救い出す使命があると考えたという(注5)。そのオックスフォード哲学の害悪の権化が誰あろうオースティンであった。

 ウォーノックはアンスコムから英訳中の『哲学探究』を読ませてもらうなどしてかなり目をかけてもらっていたようで、先輩後輩関係というよりは、師弟的な関係だったように思われる。

 一方、戦後にオースティンがバーリンと再開したセンスデータ論を批判する講義に、ウォーノックはアンスコムと一緒に出席したりもしていた。ちなみに、この講義にはのちにウォーノックの夫となるジェフリー・ウォーノックも出ていて、マリー・ウォーノックはここで彼と最初に出会った。

 ウォーノックの考えでは、アンスコムは「ウィトゲンシュタインのスパイ」としてこの講義に出ていた。アンスコムはしばしば講義の途中に異論を差し挟み、侮蔑的なコメントをしたという。