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「アレがなければ3カ月で僕は死んでました」…「こりゃ、お手上げ」状態のピストン西沢を、24年間続く長寿ラジオ番組へと導いた“ハイテク機器”とは?

『GROOVE LINE』卒業記念インタビュー♯1

2022/12/03

genre : エンタメ, 芸能

note

西沢 そう。音楽的な知識を買われて制作の仕事からJ-WAVEに入ったのが89年。当時はラジオについての知識なんて皆無だし、そもそも僕自身ラジオを聴いて育ってこなかった。無論、いまみたいなしゃべりも最初は全く出来なくて。

 ついこの間までディレクションをやっていたやつが、突然、「お前、面白いからしゃべってみろよ?」と言われて、夕方6時からの『J’s Calling』というリクエスト番組を担当したのが93年だったかな。

 だって当時のJ-WAVEはすでに英語が話せる国際的な方々が丁寧な言葉使いで洋楽を紹介しながら文化的な話をする、というハイソサエティかつアップタウンな放送局の色が出来上がっていて。ただの素人な上に亜流なんだから「こりゃ、お手上げだ」と思った。

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©文藝春秋 撮影/石川啓次

――そうしたJ-WAVEにおいて、『GROOVE LINE』は昭和のAMラジオの深夜放送的に、リスナーと大喜利的なお題でやり取りを交わしたり、ナンセンスなトークや下ネタまで何でもアリの番組になりました。どのように活路を見出したのでしょうか?

あの企画がなかったらしゃべり手としての僕は3カ月で死んでいた

西沢 ある時、その頃は最先端のハイテク機器だった留守番電話に着目してね。局内に留守電を一つ設置して、番号をリスナーに伝えて、「あなたの知らない曲を鼻歌で吹き込んで」と呼び掛けて、それをリスナーのみんなで探そうという企画をやってみたら、それが上手くいって。

©文藝春秋 撮影/石川啓次

――いまのスマホのアプリで言うとShazamのような企画ですね。

西沢 僕自身の話は拙くても、鼻歌に振れば良いから急に気が楽になって、そこから徐々にしゃべれるようになった。あれが無かったらしゃべり手としての僕は3カ月で死んでいたと思う。

 それでも、当時の制作の一番偉い人からはずっと詰められていましたね。「お前、あんなこと言ったな!」とか「お前、これ、どうするつもりだ?」とか(笑)。毎日「すみません」と謝っては放送後にレポートを提出していた。しかも強制されていたわけじゃなく、毎回、自主的に書いていた。

――案外、マジメだったんですね。

西沢 そりゃそうだよ。拙いとはいえ、仮にもギャラをもらってしゃべっていたんだから。あとは制作経験者としての「そうしたほうがいいかもな」という自主的な配慮と工夫でもあった。

 そのうち、98年、当時の渋谷HMVにサテライトスタジオが出来て。その偉い人から「お前、HMVスタジオから公開生放送をやらないか? あまり他の人が行きたがらないんだよ」と誘われて、「行きます! 行かせてください!!」と即答した。番組を続ける保険と免罪符が得られると思ったし、本社のスタジオじゃない分、しゃべりの自由度も上がる。「いろんなことが試せるぞ」と。