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人気絶頂の04年、番組スタッフに起きたある“異変”

――2000年から2010年までは現在ナレーター/ナビゲーターとしてご活躍の秀島史香さんとのツインナビゲート体制に。ピストンさんがスタジオの一般客や秀島さんをいじり、そのピストンさんに秀島さんがツッコミを入れ、さらにお二人で掛け合いを展開するというスタイルも番組の名物となりました。

西沢 スタジオで秀島さんと向かい合っていても、僕は常に目の前のお客さんとしゃべっていた。最初の頃はちょっと批判もあったんですよ。でも、そのほうがパーソナリティ同士の会話を聴かせるよりもはるかに面白いと思ったし、リスナーも自分に話しかけられているような感覚を覚えてくれた。

 するとリスナーとの質の高いコミュニケーションが生まれて、レーティング(聴取率)がどんどん上がった。数字という明確なエビデンスが見えてくると、僕も自分のスタイルであり、しゃべる目的であり、自分のなかでの理想的なラジオの在り方みたいなものがどんどんと明確になっていった。

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 秀島さんの人気が出てレーティングが爆発して、番組の規模を拡大し続けたのが2004、5年あたりまでだったかな。最もリスナーからFAXやメールが来ていた頃は、一回の放送で10,000通は来ていました。出力紙を整理していたAD(=アシスタントディレクター)の指紋が擦れて無くなってたからね。

©文藝春秋 撮影/石川啓次

――すごい数ですね。

西沢 僕にとってのラジオとはリスナーとのフレンドシップであり、双方向のコミュニケーション。こちらからの投げ掛けにレスポンスがあって、それをさらに膨らませていくことで大きくしていくんだよ。

 Twitterのトピックが広がる構造もまさにラジオの手法でしょ? どこか友達のようで、一人で聴いていても寂しくないもの。たとえ何十万人が聴いてくれたとしても、結局、コミュニケーションとしては常に1対1。率直にそこがラジオの一番の魅力だと感じたから、それを『GROOVE LINE』で毎日やっていただけです。

――『GROOVE LINE』終了後、他局から「うちで番組をやりませんか?」というオファーはありましたか?

西沢 全くないよ。僕自身、いまは自分のYouTubeチャンネルもあるし、よほどの事がないと成立し辛いとも思うし。

なぜ今『GROOVE LINE』のような番組は成立しづらいのだろうか?

――と、いうと?

西沢 『GROOVE LINE』という番組が、あのスタイルで長年続いた最も大きな要素は、番組の責任者そのものが僕だったから。そもそも番組というのは、放送局の下に制作会社が入り、局側のプロデューサーと制作会社がキャスティングを行い、スタッフチームを組んで番組作りを進めるというのが基本的な構造です。

 でも、『GROOVE LINE』の場合は、制作会社役も、出演者役も、キャスティングする権利も、制作費の把握も全て僕が担っていたの。さっきもお話しした通り、僕は89年からJ-WAVEで仕事していましたから、局側も長年、「まあ西沢だったらあいつ一人にやらせときゃいいよ」という感じだった。そのおかげで、だいぶ自由に動ける身分だったんですよ。