炭鉱調査隊が襲われる
筆者の調べた限りでは、樺太統治が始まった明治末期から大正中頃にかけては、殺傷事件は極めて少なく、その多くは猟師が手負い熊に逆襲されるというケースであった。しかし一つだけ謎に包まれた事件がある。
「熊に喰はれしか――本年七月中、樺太島の劇場樺太座に乗込み数日間、慈善興行を為せる、区内函館無料宿泊所慈善活動写真隊、照沼兵吉ほか六名の一行は、同所を打揚げ後、西海岸各地を巡業し、さらに栄浜方面に向かいたるが、その後どこに行きたるものか、本部にさえも一向通信なしとて所主、区内宝町仲山与七より、これが捜索方を樺太支庁警務係に出願したりと」――大正2年10月4日『函館新聞』
この失踪事件に関しては、当該記事以外にまったく手がかりがないが、前記「伊皿山事件」との関連もありそうなので後述する。
大正前期までは、獣害事件に関しては、おおむね平穏であった樺太も、後期になると、にわかに不穏な事件が続発するようになる。特筆すべきは、大正11年に西海岸北部の恵須取町で発生した、鉱山会社の地質調査隊一行が執拗にヒグマに付け狙われた事件である。
この事件は、現地に出張していた樺太庁の技手が上司に当てた手紙を、地元紙が報じたことで騒ぎになった。以下、手紙の一部を転載してみよう。
「「……新聞や警務課員等の噂にてよくご存じとは思い居り候えども、千緒川上流二里くらいのところに宿営せる三菱隊より米噌運搬のため、海岸なる伊賀駅逓に遣わしたる人夫一名ラッパを吹きながら下山の途中、午前七時頃海岸より千間足らずの場所にて突然に襲われ、直ちにラッパは打ち落とされ、横打ちに打ち倒され、臀部に噛みつかれたり」
(中略)「去る十五日、三井会社の三人連れにて標杭打ちを終わり帰途、午後五時頃、千緒川の上流一里半余の場所にて、先頭に歩める人夫一名またもや熊に襲われ、顔面半分骨を痛める重傷、その他側頭部等に掻き傷を負い、(中略)上述のごとく熊に出会するにあらずして寧ろ熊に襲わるる状態にて一同困り居り候」」――『樺太日日新聞』大正11年7月6日
普通ヒグマは、足跡を消す「留め足」を使って藪に潜み、追撃隊の先頭が通り過ぎた2人目以降を狙うものである。しかし記事を見ると先頭の人夫が襲われている。つまり最初から人間を襲うためにうろついていたとしか思えない。熊除けラッパはなんの役にも立たず、かえってヒグマを寄せ付けたとも思える。