終わらない「人喰い熊」騒ぎ
5年後の昭和4年、三たび人喰い熊騒ぎが、恵須取住民を恐怖に陥れたのである。
「恵須取町永島造材部、朱昌魯が数日前、付近の小川にヤマベ釣りに赴いたところ、川岸より五六間離れた草むらに真夏の陽を浴びながら巨熊が朱の足音も気づかずに昼寝の高いびきをしてるので、肩にした猟銃の狙いを定めて一発、たまは急所をはずれ腹を貫いたので熊は棒立ちになって一声吠えたかと思う間もあらばこそ、朱を目がけて飛びかかったので、朱は盲滅法に鉄砲をぶっ放したが、血に染まった熊は朱を叩き倒し昏倒したのを見て、そのまま森林奥へ姿を隠した、物音を聞き付近にいた流送人夫が駆けつけ応急手当を施したが、間もなく絶命した」――『小樽新聞』昭和4年8月11日
「最近、恵須取川上流に頻々として巨熊の出没をみるので同地造材業者や通行人は非常な危険を感じておったが、去る七日午前十時頃同地石井造材所杣夫吾妻某(四六)が所要あって外出したところ、一頭の巨熊はいきなり飛びかかってきたので、度胸のよい吾妻は何くそとばかり持ち合わせの刃物をふるって大格闘を演じたが、全身数ヵ所に致命的負傷を負い、その場にたおれたるを友人某が見つけて、背にした鉄砲を連発して見事巨熊を射とめた、なお吾妻は直ちに病院へ運ばれたが、途中遂に絶命した」――『樺太日日新聞』昭和4年10月16日
2つの事件は2ヵ月ほどの間隔で発生し、さらに現場が至近であることから、朱に手負いにされた加害熊が2つ目の事件を引き起こした可能性が高い。
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