「樺太の熊は北海道の熊よりおとなしい」――そんな風説を否定する樺太で多発した「人喰い熊事件」の数々を、ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』より一部抜粋してお届け。
なぜ、大正後期を境に人喰い熊事件が多発したのだろうか?(全2回の2回目/前編を読む)
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北限の出稼ぎの地
明治時代には「北海道落ち」という言葉があった。本州で食いつめた者が、北海道に「落ち延びる」ことを指す。
そして北海道には「樺太落ち」という言葉があった。北海道で食いつめた者が、さらに樺太に「落ち延びる」からである。
樺太は、冬期に零下20度を記録するのが普通の酷寒地であり、流氷のために交通は杜絶する。また水稲栽培が不可能なため、米はすべて移入せざるを得ない。従って物価が非常に高かったといわれる。
その一方で、賃金もまた一般的に高かった。夏期の短い北方では、漁業や土木業など多くの産業が夏に集中せざるを得ない。短期間に多くの人手が必要なため、賃金が高止まりする傾向があった。さらに緯度が高いため、夏の1日は極端に長い。
要するに「きついが金になる」ので、多くの出稼ぎ労働者が、北海道、樺太に渡ったのである。
また同島は北海道と同じく大自然の宝庫であり、ヒグマの密集地帯でもあった(地元の人々は「アカグマ」と呼んでいたが、ヒグマが「緋熊」と言われるように赤毛の個体が多いことを考えれば同種と言っていいだろう)。
樺太のヒグマはおとなしく、人間に向かってくることは滅多にないと長らく言い伝えられてきた。たとえば以下のような記述である。
「同じ熊でも樺太の熊は北海道の熊よりおとなしい、樺太の熊は突然人に出会って驚いた時でなければ決して進んで人を襲わない」――『樺太日日新聞』大正5年9月30日
「樺太の熊は北海道のものほど執念深くなく、実にあっさりとしている(中略)それはこの地の熊が臆病であると云うよりは、下手に人間様に相手になってはよいことが無いという風に考えているので、寧ろそれは寒国の動物の特性たる賢さから来るものであろう」――『樺太風物抄』谷口尚文、七丈書院、昭和19年
「こっちは自動車に乗っていたんだが、ついウッカリとクラクションを鳴らしてしまったんだ。すると奴さん、驚くまいことか飛び上がってスタコラと一目散に逃げ出してしまった。その恰好の可笑しさに思わず哄笑してしまったが、こんなユーモアたっぷりな、それでいてスリルに富んだ出来事も樺太の秋でなければ見られない事である(「樺太の旅」阿部悦郎)」――『週刊朝日』昭和10年秋季特別号
しかし筆者が地元紙『樺太日日新聞』(明治43年~昭和17年)をほぼすべて閲覧した印象では、決してそんなことはない。
冬が長く、夏の極端に短いこの地方では、いったん食物に困窮すると、里に下りて見境なく牛馬を喰い殺し、場合によっては人間をも襲った。そしてその凶暴性は年々増していき、昭和10年には樺太全島を震撼させた「伊皿山事件」が起きるのである。
本章で取り上げるのは、樺太庁管轄のため北海道庁の統計資料には出てこない、従って専門家の間でもまったく知られていない、樺太における人喰い熊事件の数々である。