相次ぐ事件に一行は、刈り分け道を整備して見通しをよくすることや、アイヌ猟師らに頼みアマッポ(仕掛け銃)やオトシ(罠)を仕掛けるなどして対処したという。その後、続報がないので、加害熊を仕止めるか、追い払うことに成功したと思われる。
事件現場である恵須取村一帯はヒグマの巣窟で、翌年10月にも「本月初旬から中旬の恵須取方面は熊の出没が甚だしい」(『樺太日日新聞』大正12年10月30日)の記事があり、この月だけで3頭が獲殺されたと報じている。
腹中から生々しい女の足が…
さらに翌年の大正13年10月、同管内で再び人喰い熊が出没する。
「十七日樺太西海岸恵須取川上流、樺太工業造林現場において作業中の某は、突如巨熊に襲われ、うち一名は逃げ場を失いその場に咬み殺され、一名は重傷を負い、虫の息の状態にあり、馬一頭も荒れ狂う巨熊のために重傷を負わされた」――『小樽新聞』大正13年10月22日
樺太工業は後に述べる通り、王子製紙、富士製紙と並ぶ三大製紙会社のひとつで、経営者は渋沢栄一の姻戚に当たる大川平三郎である。それはともかく記事には捕獲についての記述がないので、おそらく加害熊は逃走したものと思われる。その証左とも思える人喰い熊事件が、その後、付近一帯で続発し始める。
「樺太西海岸北部、鵜城方面では最近、巨熊出没しているが、そのうち最も多い箇所は、鵜城、恵須取間および珍内間付近で、去月下旬から本月上旬にかけ、既に被害者三人におよび、中にも悲惨なのは若い婦人が道路を通行中、熊に襲われ、内臓をことごとく喰われて路傍に斃死してるのを通行人が発見し、ただちに付近部落民の招集を行い、熊を銃殺したところ、腹中から生々しい女の足がそのままとなって出てきたような凄惨なこともあり、また鵜城殖民地農夫が用達しに出かけ、ホロ酔い機嫌で帰宅の途中、襲われて首を引き抜かれ、そのまま即死したが、胴体以下を七八間先の叢中に穴を掘って埋めた上に熊が張り番しているのを翌朝、通行の農夫が発見して大騒ぎとなり、付近の猟師を狩り集めて銃殺したこともあり、また今月二日に珍内某伐採所の杣夫三人が通行中、熊と出会したが、折良く一人が銃を携帯していたので手早く発砲したが、手許が狂って命中せず、熊はやにわに同人に飛びかかり、激しい格闘となったが、結局熊のために顔面を掻きむしられ、その場に昏倒したのを同行者が救ったというようなことが続出するので、同方面旅行者はもちろん、一般の恐怖は非常なものであると」――『小樽新聞』大正13年11月26日
位置関係を説明すると、樺太西海岸北部、恵須取村25キロ南に鵜城村があり、さらに45キロ南に三浜村(のちの珍内町)がある。この70キロの区間に、通行中の一般人を襲って喰い殺す複数の猛熊が、同時多発的に出現したのである。それだけでも前代未聞の椿事といえるわけだが、しかし事件は終わらなかった。