人喰いヒグマを解剖することになった北海道の大学の研究グループ。胃袋の中から出てきたのは、人間の遺体の一部など恐ろしいものばかりだった……。そして、研究者たちが食べた「ヒグマの味」とは?

 ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』より一部抜粋。(全2回の1回目/後編を読む)

人喰いヒグマを解剖してわかった「驚きの中身」とは? 写真はイメージです ©getty

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「丘珠事件」の知られざる事実

 令和3年6月に札幌市内の住宅街にヒグマが出現したニュースは、北海道民に大きな衝撃を与えた。

 実は筆者はヒグマが徘徊していた東区の出身で、現地には大いに土地勘があるのだが、あの住宅街のど真ん中に、飼われていたのではない、完全な野生のヒグマがうろついていたというのは、まったく信じられない出来事であった。

 それはともかく、この事件で再び脚光を浴びたのが、明治11年に起きた「丘珠事件」である。なぜこの事件が日の目を見たのかというと、「東区にヒグマが出たのは、丘珠事件以来、およそ150年ぶりではないか」という一部の報道がなされたからである。

 本州ではあまり知られていないと思うので、事件の経緯をかいつまんで説明すると、明治11年1月、札幌市内の山鼻村で穴熊狩りをしていた蛯子勝太郎がヒグマに逆襲されて死亡した。ヒグマは冬ごもりから目覚め、「穴持たず」となって徘徊を始めた。「穴持たず」とは、冬ごもりできなかった熊のことで、空腹を抱えているため極めて危険とされる。

 ヒグマは平岸、月寒を経て北上し、丘珠村の開拓小屋に乱入。戸主の堺倉吉と長男留吉を喰い殺し、妻リツならびに雇い人に重傷を負わせ、翌日熊討獲方に射殺された。加害熊は札幌農学校(現・北海道大学)に運ばれて剥製にされ、胃から出てきた被害者の手足のアルコール漬けとともに附属植物園に長らく展示された。

 北海道帝国大学教授で動物学者の八田三郎による『熊』(明治44年刊)に、事件の様子が詳細に記されている。発生日時については、後述する通り後年、議論となったが、そのまま引用してみよう。

「明治十一年十二月二十五日の当夜は非常な雪降りであった。師走の忙しさに昼の疲れもひとしおで、炉に炭を焚きたてて安き眠りに就いた。一睡まどろむ間もなく、丑の刻と思しきに、暗黒なる室内に騒がしき物音がした。倉吉は目を覚まし「誰だッ」と云う間もあらず、悲鳴を挙げた、やられたのだ。妻女は夢心地に先ほどからの物音を聞いていたが、倉吉の最後の叫びに喫驚し、裸体のまま日も経たぬ嬰児をかかえて立ち上がった、この時背肌にザラッと触れたのは針の刷毛で撫でたような感じがした、熊に触れたのだ」

 妻女は夢中で戸外へ逃げ出し、伏古川の向かいに住む雇い人、石沢定吉に助けを求めた。この時すでに主人と嬰児、さらに別の雇い人が食われていた。

 翌日、熊討獲方が到着すると、倉吉は原形を止めないほどに食い荒らされていた。程なくして山林に潜んでいたヒグマが討ち取られた。身の丈6尺3寸(約190センチ)のオスの成獣であった。