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 北海道立文書館所蔵『開拓使公文録』の『明治十一年 長官届上申書録』という文書である。こちらも「熊」で検索したらすぐに見つかった。

「危難救援の者賞誉の儀上申
 本年一月十八日午前三時、当札幌郡丘珠村平民、堺倉吉居小家へ猛熊乱入、倉吉ならびに同人長男、留吉儀は即死、倉吉妻リツおよび雇人姓不詳酉蔵は重傷を受け翌十九日死去致し候ところ右乱入の際、倉吉雇い青森県下陸奥国三戸郡五戸馬喰町平民、石澤定吉、リツの危難を認め同人を背負い急場を避けしめ候段、奇特の儀につき明治七年第百号公達に照準し別紙の通り賞誉取り計らい候、この段上申仕り候なり 明治十一年二月二十二日」

 この文書によれば、「雇人酉蔵」は19日に死亡しているので、前出の警察文書とは行き違いになってしまったらしい。

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 これまでの諸説では、この事件で死亡したのは3名であり、その内訳は「倉吉、留吉、蛯子勝太郎」(犬飼哲夫、門崎允昭説)、あるいは「倉吉、留吉、雇人酉蔵」(八田三郎説)で食い違いが見られた。しかし右資料を総合すると、犠牲者は「倉吉、留吉、雇人酉蔵、蛯子勝太郎」となり、丘珠事件における死者は4名というのが正しいことになる。

解剖と禁断の実食

 この他にも、いくつか興味深い資料を発掘したので、以下にまとめてみよう。

 事件発生後、おそらく最初にこの事件について回顧したのは、30年後の以下の新聞記事ではないかと思われる。

「▲三号館の老熊―第一号館の右側第二号館と相対して第三号館がある、この三号館の東部薄暗きところに傲然と構え込んで御座る銅色の老熊が居る。こやつステキ滅法な曲者で、明治十一年は一月の中旬、札幌郡は丘珠の炭焼小屋に忍び入り一夜のうちに父子の二人を噛み殺し、なお飽き足らず産褥の母をも犯さんとしたが、欲に目のくらめる熊は炉中に火のあるにも気付かず驀然これに躍り込んだが、さあそうなってはさすがの熊もたまらない、他の生命どころか自分の生命にもかかわる大事と一目散に逃げ走ったが、逃げたとて逃げおおせるものでなし、とうとう銃殺の憂き目に遭うて往生奉ったのが即ちこの三号館の老熊である、挿絵の壜詰は当時老熊の腸から掘り出した親子の遺骸であるが、今なお依然として博物館に秘蔵されてある。

 ▲村田氏の談―(中略)こやつは第一に元丸山に火薬庫のあった沢で馬追いを喰い殺し、それで飽き足らずして丸山より今の遊郭の中を通り豊平の河流を向こうに渡って、さらに丘珠の近傍、炭焼小屋の辺に至り、最初にはまず南の方の炭小屋に入らんとしたらしいが、早くもこの様子を観知し、入り来らんとする熊を目がけて火ぼたを投げたので、熊はたちまち歩を転じて北側の小屋に忍び入り、いきなり親爺を噛み殺し、次に生まれて百日目ばかりの赤児をもひと噛みとなし、なお母をも噛み殺さんの勢いであったが、やにわに彼は炉中に飛び込んだので、体一面に火を浴びて一目散に逃げ走った、その翌日、付近村落の大騒ぎとなり、槍鉄砲で捜し廻り、遂に三日目の夕刻、首尾よくこれを打ち取ったのである。この壜詰は当時解剖の切、彼の体内から出たものであるが、この通り親爺の額と子供の手足がまだ消化せずにあったものと見る。誠に可愛そうぢゃありませんか云々」――『北海タイムス』明治42年5月19日 博物館案内(五) ▽老熊の歴史

 博物館とは、現在の北大植物園のことで、案内役の村田老人は剥製の名人であり、同館の生き字引のような人物だったらしく、他の資料にも、その名前を散見した。