また『朝日新聞』(大正2年10月28日)に、丘珠事件を追悼する詩歌が掲載されているが、内容は割愛する。
次に昭和8年発行の『恵迪寮史』(北海道帝国大学恵迪寮)に、解剖の様子が詳細に描かれているので、現代語に改めて抄出してみよう。
「第一、その形状で著しかったことは、そのヒグマにまったく脂肪がなかったことである。その原因は、そのヒグマに非常なことがあって厳冬を凌ぐ貯蓄をすることができなかったのか、あるいは自ら求めなかったのか、いずれにせよ地上は雪深く餌を得ることができず、食を絶って長く、飢餓が窮まって遂に前条の暴挙に及んだことは疑いを容れない。
(中略)その胃を審査してみると、その最後の食料であった物の性質は実に驚愕すべきもので、ヒグマはもともと食物を噛まないもののようで、消化し残ったものはみな、少しも噛んだ徴候がなく、かつその消化力も甚だ遅く、死前十二時間に食べた証拠がある物も、わずかに消化するだけで、その物の形容および性質とも残っていて、明らかに弁別し得るほどである。ただ数日前に食った物のみは、その消化が頗る進んでいた。
(中略)前条に記した猛羆は、あるいは一時、アイヌに飼われて後に、逸走したものであるという。しかしこれは、もとよりひとつの憶説で、これを証明する事実はない。むしろ飢餓が極まって、この事変を起こしたとするのを穏当とするべきだろう」――『恵迪寮史』北海道帝国大学恵迪寮、昭和8年
「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」
『クラーク先生とその弟子たち』(大島正健著、大島正満・大島智夫補訂、新地書房、1991年)にも「篠路の熊」の一節があり、明らかに丘珠事件について記されているが、この中にも解剖するくだりが描かれている。
「思わぬ材料に恵まれ歓呼の声をあげた学生達は、ペンハロー教授指導のもとに、早速解剖実習にとりかかった。見る見る皮は剥ぎとられ、内臓を開く段取りとなったが、教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切りとった。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋へ飛び込んだ。
やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍らしい肉を噛みしめていたが、誰いうとなく、「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」という声がほとばしり出た。