一方で、『新版ヒグマ 北海道の自然』(門崎允昭・犬飼哲夫、北海道新聞社、平成五年)では、事件発生日は明治11年1月17日となっていて、その経緯も若干異なる。
事件発生の数日前に、円山と藻岩山の山間に熊撃ちに行った猟師、蛯子勝太郎が咬殺され、ヒグマはそのまま「穴持たず」となって徘徊を始めた。開拓使は熊撃ちに命じて追跡させたが、白石村から雁来村に来たところで吹雪に阻まれて断念した。このヒグマが堺倉吉一家を襲ったものだという。また堺家の雇い人は女性で、妻女とともに逃れたことになっている。
生き延びた妻女は「利津」といい、当時34歳であった。南部の生まれで、19歳の時に、当時まだ蝦夷と呼ばれていた北海道に渡り、堺倉吉と同伴して内地に帰ろうとしたが、箱館戦争に阻まれて引き返し、「当時大森林であった札幌の附近」に住むことになった(前掲『熊』)。
札幌市東区の札幌村郷土記念館が編纂した『東区今昔3 東区拓殖史』(昭和58年)には、明治初期に札幌村(現在の東区)に入植した開拓団の人名が詳しく記載されている。明治4年の『札幌郡丘珠村人別調』に「堺倉吉」の名前があった。
第十六番
堺 倉吉 三七
妻 利津 二九
女 政 二
母 喜都 六五
この資料によれば、事件当時、倉吉は44歳、利津は36歳だったことになるが、後に触れるように「数え年」だろう。倉吉の母喜都については、記録では触れられていない。また「女政」とあるが、ヒグマに襲われたのは男児であったので、両名とも事件前に死去したのかもしれない。
当時の丘珠村は鬱蒼とした原生林だったようで、明治12年に同村を訪れた開拓使物産局員の備忘録に、「石狩街道にて可や道幅広く開きあるも、両側大樹のため旅行者は熊害をおそれる程の有様にて、毎月大木を伐倒し、これに火を移しその焼失するを待ち開墾する態の始末、実に未開の形そのままなりし」(前掲『東区今昔3 東区拓殖史』)とある。
なぜ「1月」と「12月」で議論が分かれたのか?
この丘珠事件が、いつ起こったのかについては、「1月」か「12月」かで長らく議論が交わされてきた。その理由は、前出の八田博士が丘珠事件の3年前に起きた、極めて似かよった事件と混同してしまったことによるらしい。
その事件とは以下のようなものであった。
「1875年12月8日、虻田郡弁辺村(現豊浦町)の山田孝次郎宅に1頭のヒグマが侵入し、同家に寄留している関川善蔵を咬殺し、孝次郎の長女と、同じく同家に寄留する亘理慶蔵の母に傷を負わせた。ヒグマは岡田伝次郎とアイヌの猟師たちによって銃殺された」――『ヒグマ大全』門崎允昭、北海道新聞社、令和2年
2つの事件は民家に猛熊が侵入したことや、被害者の人物構成がやや共通しており、発生日時も「明治8年12月」と「明治11年1月」で、なんとなく似ている。混同しても無理からぬところではある。