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出てきたのは女の髪の毛、赤子の両手…人喰いヒグマを解剖してわかった「衝撃の中身」

『神々の復讐』 #3

2022/11/27
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 この議論は、昭和56年に道職員であった安田鎮雄が当時の警察資料を発掘したことで終止符が打たれた。その資料というのは以下の文書である(現代語に意訳)。

「警察課 札幌警察署
 本月十一日、山鼻村において当地寄留の蛯子勝太郎を殺害、喰い殺した悪熊を討ち獲った者より申し付けられたところによれば、本月十二日に右熊は、平岸村より月寒村および白石村を経て雁来村で足跡を見失ってしまったが、本月十八日、丘珠村居住の堺倉吉の小家へ乱入、戸主倉吉並びに同人長男留吉を殺害、他に二人へ重傷を負わせ(後略)」――明治11年1月19日(取裁録 警察課)

 追跡の経緯に関しては、榊原直行の『諸世雑記』にも記録されていて、「明治十一年十月十七日、円山村にて炭焼小屋の屋根より突然飛出し、(中略)佐々木直則、武田義勝、榊原熊太郎三人にて出張のところ、打ち合わせの通り足跡を踏み辿り、この時は最岩獄中腹を登り、坂を下り川を越え、真駒内の方へ上がり、月寒坂下林に入り」などと記録されている。佐々木、武田、榊原は「熊討獲方」に雇われた白石村の士族である(『士族移民北海道開拓使 貫属考の』中濱康光)。

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 さらに『丘珠百二十年史』(「丘珠百二十年史」編纂委員会、平成3年)中の「「人食いグマ事件」真相の真相」で、著者の細川道夫が堺家の位牌まで確認して調べた結果、事件は明治11年1月18日未明に発生し、位牌に記載されていた「明治10年12月16日」は旧暦(太陰太陽暦)であると結論している。発生日時に混乱が生じたのは、新暦(太陽暦)が庶民の間に浸透していなかったので、生き残った妻リツも旧暦で語ったためではないかとしている。これはかなり説得力がある。

犠牲者は3名でなく「4名」では?

 しかしである。

 今回、筆者は当時の読売新聞が、同事件を報じているのを発見してしまった。以下はその転載である。

「一昨日の新聞に北海道札幌辺へ熊が出て人を噛み殺した事を出しましたが、またくわしい知らせに、その熊をよくよく探すうち先月十七日の晩に、また札幌在岡珠村の酒井倉吉の家へ暴れ込み、無慚にも倉吉と子供を一ト口に噛殺し手も足も離ればなれで家の中は血だらけ、その上にまた女房へ噛みつき大疵を受けその物音に驚いて隣から駆け付けた男も同じく疵を受け、熊は飛び出して何れへか逃げてしまい、その事が警察所へ知れて翌日、屯田兵五十人を人選し、いよいよ熊狩になってそれぞれ手わけをし四方八方探すと、岡珠村の熊笹の中に寝ているのを見つけ、ソレというより警察課長の森長保君がはなす一発の弾丸に難なく彼の熊を打ち留め、大勢かかって札幌へ引き出したが、長さは六尺余り胴のまわりは五尺六寸高さは三尺六寸余りもあり(後略)」――『読売新聞』明治11年2月2日

 パソコンによる新聞検索など存在しなかった時代に、この記事が見つからなかったとしても不思議ではないわけだが、「ダメ押し」でもう一つ、決定的な資料を発見した。

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