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最初のターミナルができた「紀和」ってどんな場所?

 江戸時代には徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の城下町だった和歌山の町。その時代において、町の中心はもちろん和歌山城だった。

 中世まで戦国大名が立たず、雑賀衆によって治められてきた和歌山に和歌山城が築かれたのは豊臣秀吉の時代。秀吉の弟・秀長に与えられ、関ケ原の戦い後には浅野氏が入って紀州藩が成立する。1619年に家康の10男・頼宣が入り、幕末まで紀州徳川家の城下町として続いてきた。

 

 紀ノ川の河口に広がる紀州の城下町は、大坂と江戸を結ぶ航路の守りを担う枢要の地。いま、中心繁華街になっている本町通りは江戸時代からの和歌山の町のメイン大通りだった。つまり、お城から北へ向かう道。そこを市街地を抜けてもさらに北上し、少し東にずれた場所。そこに紀和駅はある。

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 いまの紀和駅は、しがない無人の小駅に過ぎない。高架沿いの駅前は公園として整備されていて、そこにかつては留置線などがあったのだろうかと想像がつく。

 さらに駅前から南西に向かって走る通り沿いには古い商店なども散見されるから、そこに“和歌山初のターミナル”の面影をみることもできるだろうが、現実的にいまの紀和駅にはターミナルらしさはないといっていい。 

最初のターミナルが出来て約5年で“次世代”の「和歌山」が開業

 紀和駅の開業は、1898年のことだ。紀和鉄道、すなわち現在のJR和歌山線の駅であった。そしてその当時は和歌山駅と名乗っていた。つまり、れっきとした和歌山の町のターミナル、玄関口として開業した駅だったのだ。

 だが、ターミナルとして我が世の春を謳歌した時代は短い。初代和歌山駅の開業から5年後、1903年には和歌山市駅が開業する。

 南海はその時点で大阪・なんばと和歌山を連絡することに成功している。紀ノ川沿いを走るに過ぎなかった紀和鉄道のターミナル・和歌山駅と比べれば、その立場の差は歴然としている。畢竟、和歌山市駅が新たな和歌山のターミナルとして存在感を強めていくことになった。