かつて日本海軍は、神奈川県の横須賀、広島県呉、長崎県佐世保、そして京都府舞鶴の4つの大きな軍港に、「鎮守府」と呼ぶ司令部を置き、各管区の軍政を司った。
「みょうこう」が母基地とする舞鶴に鎮守府が設置されたのは1901(明治34)年。初代司令長官は東郷平八郎。日本進出を窺うロシアのウラジオストク軍港を彼方に睨み、対露戦に備えていた。東郷が率いる連合艦隊がロシアの大艦隊を破った日本海海戦は、その4年後の出来事だ。
戦後の海自護衛艦隊は、かつて鎮守府があった4カ所に青森県の大湊を加え、都合5つの基地施設を地方総監部とし、それぞれの主要拠点としている。海自の警備監視対象は、北朝鮮からの弾道ミサイルもさることながら、近年では激増する中国海軍艦船が主となっている。太平洋へ進出するため日本海や東シナ海などの日本近海を頻繁に航行する彼らに対抗するため、舞鶴基地は日本海を挟み朝鮮半島と中国大陸に対峙する最前線基地となっているのだ。
160センチに届かない彼女の小柄な体躯
取材の日、「みょうこう」は舞鶴基地の北吸桟橋に停泊中だった。乗艦する筆者を笑顔の敬礼で出迎えてくれた艦長の大谷は身長160センチにわずかに届かない小柄な体躯。気をつけの姿勢で整列する男性隊員のなかにあって、その姿は埋没しがちだ。
艦の中央にそびえる艦橋構造物は、操舵室のある最上階のブリッジ(艦橋)まで海面から約20メートルの高さにある。「妙高山」とも称されるそれは、構造物の外壁に貼りついている四面の「SPY−1D」レーダーの性能を最大限に発揮させるためにデザインされた上背だ。
甲板上の構造物や装備品も、イージス・システムの根幹となるこのレーダー・アンテナの照射波を遮らないように設計、配置されている。またその一つひとつの形状は、相手のレーダーに映りにくいステルス性を考慮して、すべて傾斜したデザインだ。
上甲板の扉から薄暗い構造物内部に入り、見上げるほど急峻なラッタル(階段)を何度か折り返して昇ると、操舵輪や羅針盤、各種計器が備わる艦橋に出る。思いのほか位置が高く、窓から前方甲板を見下ろすと、127ミリ砲から舳先へと、さらに桟橋の向こうには舞鶴基地周辺の歴史的建造物が遠望できる。桟橋に舫ってある他のミサイル護衛艦は、「みょうこう」が出撃する際に随伴するはずだ。
出入港時の大谷は、背もたれに赤いカバーが掛かった艦長席に座して指揮を執る。脚の長いこの席は艦橋右寄りに据えられてあり、操艦する当直士官ら操舵室全体の動きをチェックすることができる。