園田は鹿児島県立武岡台高校を卒業後、空自の航空学生として戦闘機操縦課程を修了すると、実戦部隊で長らく経験を積んだ。幼いころ海自の護衛艦乗りに憧れた園田だったが、その頃はすっかり空飛ぶ世界に魅了されていた。真夜中のスクランブル発進で高度3万フィート(約9000メートル)へ。煌々たる満月が果てのない雲海を銀色に照らす生涯忘れられない光景。だが観客の目の前で繰り広げる曲技飛行は、園田にとって異次元の世界だ。戦闘機の次に目指すべきはこれだと思った。
ブルーインパルスは津波に見舞われた松島基地を拠点とするが、発災時はたまたま九州新幹線の開業記念フライトのため遠征中だった。格納庫に残したままの2機を除き、6機のブルーは難を逃れた。以来、福岡県の芦屋基地を仮の拠点として飛行訓練を重ねてきた。松島基地に帰還できたのは震災から2年後の2013年3月31日だった。
震災をめぐる数多の惨劇のなかで、6機のブルーインパルスの奇跡的な生存は東松島市の人たちにとっては復興の象徴にほかならなかった。ブルーが九州から帰ってきたとき、地元の人たちは、煙を曳いて町の上を飛ぶ彼らの姿に以前の日常が戻ってきたことを実感した。これまで何度か事故もあった。パイロットが命を落とすたびに長い禊の時を経て、それでもこのアクロバットチームは飛びつづけてきたのだ。
ブルーインパルスは「1つのオプション」
園田がチームの一員となったのは翌14年。2度希望してようやく思いが叶った。1年間の厳しい養成訓練を経て一人前の曲技飛行パイロットとして認められ、15年春から全国各地で展示飛行を披露した。そのなかで思い入れが強いのは、ブルーインパルスの操縦士として最後の年となった17年4月に復興飛翔祭で熊本上空を飛んだときのことだ。
「僕らはどこに行っても、必ずブルーを見ていただけることへの感謝の気持ちを忘れずに飛ぶんです。もちろん地上にいる人たちの姿は上から分かりませんが、僕らの思いは必ず届くと信じているし、実際、飛んだ後にいつも大きな反響をもらえる。熊本のときはその確信が飛ぶ前からあったんです」(園田)
前年4月の熊本地震では、5月末までの1カ月半の間にそれぞれ延べにして81万4000人の自衛官と、航空機2618機、艦艇300隻が人命救助と復興支援のため現地に投入された。1年後のブルーインパルスのフライトは、その災害派遣を締めくくり、さらなる復興を祈念するエールだった。動画サイトには修復中の熊本城の上空を飛ぶブルーインパルスの姿が続々と投稿された。
吉田はこう言う。
「自衛隊は必要とあれば被災地へ隊員や機材を災派で差し向けますし、ウイルスに感染したクルーズ船があれば医療支援もします。ブルーインパルスの感謝飛行もそれと同様で、国民の難事に自衛隊が何か貢献をするなかの、1つのオプションだと私は思ってます」