気象予報官が示したわずかな快晴日のなかから、29日を実施日に定め、吉田をはじめ20名の広報室員総出で調整に取りかかった。準備期間は2、3日しかない。
本来、東京上空飛行などのビッグイベントであれば、省庁間の調整は数カ月から1年がかりだ。しかし趣旨に賛同した国交省本省や東京航空局は極めて協力的だった。なによりコロナ禍で人々の往来は途絶え、羽田空港を離着陸する路線は大減便。東京は“田舎の空”と化していたのだから、話はとんとん拍子に進んだ。
この記念すべきフライトの飛行ルートは、輸送機パイロットの広報班長が線を引き結んだ。園田が古巣のブルーインパルスに調整の電話をすると、「待ってました! 任せてくれ!」とひどく意気込んでいた。
「東京上空感謝フライト」のために全員が一丸となった
週が明けた26日の火曜日。吉田と園田は、空幕総務部長に連れられて防衛大臣の決裁を仰いだ。河野は、都心のランドマークを飛び巡る規模の大きさと、わずか3日後の実施に少し驚いた様子だった。
全員で一丸となり、短期間で成し遂げたこの「東京上空感謝フライト」は、吉田が広報室に求めてきた大きな果実だった。
吉田はふと思う。空への夢をひたむきに目指した藤本あいがいま生きていたら、きっと部下思いの隊長になっていたに違いない。そしてもしかしたら自分のように子を傍らに、互いの打ち明け話ができたかもしれない。
東京の空に長い煙の尾を曳くブルーインパルスは、吉田をそんな気持ちにもさせるのだ。(吉田一佐の現職は防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室主任研究官)
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