1ページ目から読む
4/5ページ目

 実はこのアリアは超難曲のコロラトゥーラ(喉を使ってまるで声を転がすように歌う)で、ソプラノが歌うと映えるように作曲されている。イタリア辺りのオペラ公演ではこの高い音域に達することができなくて、大ブーイングを受ける歌手も数多くいると聞く。その難曲を彼女は物の見事に歌いきったのだ。場内(店内)から自然と湧き上がる拍手喝采。「ブラヴォー!」の呼び声も。僕はビックリ仰天だ。

 彼女のヴァイオリンの演奏が素晴らしいことは知っていたが、歌までこんなに上手いとは。僕が彼女に惚れるのは時間の問題だった。

彼女の両親に反対されて編み出した“秘密のデート”

 彼女とのデートは乃木坂あたり。なぜ乃木坂だったかと言えば、彼女が写譜の仕事をしていたからである。写譜とは、作曲家や編曲家が書いたオーケストラ用のスコアから、それぞれの楽器のパート譜に書き写す仕事である。兄のことはすでに彼女に打ち明けていた。それについて彼女は特段気にしていないようだった。しばらく乃木坂デートを繰り返し、ある日彼女は言った。

ADVERTISEMENT

「そろそろ両親に話そうと思うの。いいかなあ?」

 さて彼女の両親の反応はというと。

「本人同士が良くても、やがて生まれてくる子供が大人になったとき、周りの人が『おまえの親の兄貴がどういうヤツだか知ってるのか?』とイジメられるおそれがあるんだ」

 そう言われるとぐうの音も出ない。僕としては彼女に説得を任せるしかない。数日後、彼女の口から結果を聞く日がやってきた。

「だめだったわ、やっぱり。だけど、時間が遅くならなければ、会うことぐらいできると思うの」

©東京キララ社

 そこで我々が編み出したのが、日比谷線の電車の中で会うことだった。彼女の仕事場と僕の仕事場のちょうど真ん中あたりに日比谷線の駅があったのだ。僕たちはこのデートを“電デー”と呼んでいた。これなら確かに通勤の時間をデートにあてられるし、親にもバレないだろう。しかし、この“電デー”は長く続くわけがなかった。

「もうだめみたい」

 彼女は別れ際、僕の胸元に顔を埋めて涙した。それから数ヶ月して友達から「彼女が結婚したよ」という情報を聞いた。変わり身の早さと人は言うが、僕はむしろほっとした、というのが本音か。