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「犯人の大西はすこぶる変装術に巧みで…」

「清水定吉」は明治十年代、ピストル強盗を繰り返して多数を殺傷。死刑となった明治を代表する犯罪者。記事は「變(変)装に巧みな大西」の中見出しに続いて次のように書く。

 犯人の大西はすこぶる変装術に巧みで、大阪府下十三南方町、正福寺に押し入った際、被害者が認めたという右頬のホクロも墨で作ったもので、常に強盗に押し入った際は、鍋墨を顔面に塗り、容易に面体が分からないようにしていた。ピストルの発射にかけては非常に巧妙。そうした事情が分かるとともに、大阪府警察部では三池刑務所に照会し、大西性次郎の指紋及び写真を複写して全国の警察に配布した。いまのところ、まだ犯人はどこにいるとも判明しないが、姓名と素性が分かったので、捜査に大きな望みが抱けるようになった。 

 記事を書いたのは、当時國民新聞記者でのちに報知に転じた楠瀬正澄記者。「文藝春秋 臨時増刊」(1955年10月)掲載の「怪盗・ピス健の跳梁(ちょうりょう=わが物顔に動き回る)」という彼の回顧談には、このときのことが書かれている。

 それによれば、大阪支局から「ピストル強盗は大西と分かったが、大阪では検事局から記事掲載禁止命令が出ている」と連絡があった。

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「私はとっさに、東京の検事局からは記事掲載禁止が出ていないことを思い出したので、工場に行っている整理部員に連絡し、すぐ輪転機を止めて、急いで整版し直してこのニュースを入れたのであった」

 当時は明治以来の新聞紙法によって、政府が「朝憲(国家のおきて)紊乱(びんらん=道徳・秩序などを乱す)」「安寧秩序の紊乱」などと判断した場合は記事掲載や新聞発行を禁止することができた。機転から生まれたスクープということだろう。

 ピス健の犯行と断定された経緯については「斷獄實録」に記述がある。それによると、11月17日、平田・兵庫県刑事課長は大阪府警察部を訪問。大津刑事課長ら幹部や、既に来ていた警視庁と神奈川県警察部の警部を交えてピストル強盗の捜査方針などを協議した。

 兵庫は「手口と人相と自由自在で変幻出没の巧妙さなど」を、大阪は中之島図書館で図書閲覧用紙に書いた筆跡が、平田課長が持っていたピス健の手紙やはがきの筆跡と一致し、同じく平田課長が持っていたピス健の写真を共犯の男が認めたほか、正福寺を襲った際、「ピストル強盗、森神健次だ」と名乗りをあげたことを挙げ、東京と神奈川も人相、手口などの一致を指摘。全員一致で「犯人は森神健次」と断定されたという。

 この時点では「本名・大西性次郎」とされ、以降、新聞も大西と表記するようになる。