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 裁判資料を基にしたとされる石渡安躬「斷獄實録第一輯」(1933年)によれば、肉薄してきた飯束巡査に向かってピストルの引き金を引いたが、弾はもうなくなっていた。同書には次のようにある。

「彼はがらりとピストルを大地に投げて『旦那、恐れ入りました。神妙にお縄を頂戴致します』とひざまずいた。飯塚巡査が躍り上がって捕縄を掛けようとした刹那、右の手に隠し持った短刀を、目にも止まらぬ早業で巡査の右胸部にグサッと突き刺した」

 一方、「警視庁史大正編」(1960年)は逮捕後の供述として、「それ(短刀)が心臓を貫いたのは全くの偶然で」「殺すつもりもなかった」「相手を傷つける程度で逃げ延びたい一心だった」と書いている。どうも、このあたりにも「話を盛った」感じがある。添田知道「演歌の明治大正史」によれば、「品川の惨劇」という演歌が作られ、歌われたという。こうして「凶悪で冷酷な稀代のピストル強盗」のイメージが作られていった。

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この連続殺人でピス健は一気に世間に知られるようになった(東京日日)

「殉職警官は 薄給で七人暮し」という報道の中、犯人は捕まらず…

 各紙は殺害された2人の経歴や家族関係を取り上げ、東日は「殉職警官は 薄給で七人暮し」の見出しで飯束巡査の暮らしぶりを報道。11月10日付読売朝刊には早くも「ピストル殺人強盗 目星つかず 二日位い(ぐらい)でつかまらねば 又迷宮入りか」という記事が。

早くも迷宮入りの報道が(読売)

 10日発行11日付東朝夕刊1面コラム「今日の問題」は短信で「大岡山三人殺しも捕まらないのに品川の二人殺し。また自警団よりほか思案はあるまい」と書いた。

「大岡山三人殺し」は、この「大正事件史」で「女優一家3人殺し」として取り上げた事件。約2カ月前の1925年9月5日、元映画女優・中山歌子の義理の妹や養女ら3人が絞殺され、捜査が難航していた。約1年後、いったん犯行を自供した容疑者は冤罪を訴えつつ病死。その後、新たな3人殺し事件で逮捕された2人組の犯行と分かり、2人は死刑に処された。

「自警団」とは、2年前の関東大震災の際に治安維持のため各地に生まれた自主組織のこと。ピス健事件当時、拷問などが問題になる事件や迷宮入りする事件が多発。警察の失態を責める声が強まった。

警視庁幹部の嘆きも報道された(東京日日)

またもや短銃強盗「おれは品川の強盗犯人だ」

「犯人が捕まらぬ人殺し事件六つ 警察は無いも同様」(11月11日付読売)とまで書かれ、各紙は「(警視)總(総)監自ら出馬して 徹宵、全市大警戒」(10日付東日朝刊)、「不審訊(尋)問三萬(万)三千餘(余)件」(10日発行11日付國民夕刊)、「ピストル強盗の嫌疑者山狩り」(11日付東日朝刊)などと捜査状況を伝えたが、その間に――。

新聞は「殺人事件の犯人が捕まらない」と書き立てた(読売)

「又もや短銃強盗 戸塚の寺院に押入る 住職等三人を縛上げ 『おれは品川の強盗犯人だ』と 豪語して六十圓(円)強奪」。11月11日発行12日付東朝夕刊は1面トップで見出しを立てた。

今度は戸塚の寺に強盗が(東京朝日)

 11日午前4時ごろ、神奈川県戸塚町(現横浜市)の宝蔵院という寺へ強盗が押し入り、住職(50)にピストルと短刀を突きつけて荒縄で縛り上げ、「俺は新聞に出ている品川の巡査殺しの犯人だが、警戒が厳重なので高飛びせねばならぬから金を貸せ」と言った。さらに僧侶と寺男も縛ったうえ、現金六十余円(現在の約9万5000円)を強奪し、自転車で逃走した。