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連載大正事件史

「いろいろお世話になっております。私は例のピストル強盗ですが…」警視庁に届いた手紙と“日本初の劇場型犯罪”を起こした男

「いろいろお世話になっております。私は例のピストル強盗ですが…」警視庁に届いた手紙と“日本初の劇場型犯罪”を起こした男

「ピス健」事件#2

2022/12/18
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 東京、神奈川、京都、大阪、兵庫を股にかけ、ピストルと短刀を武器に強盗に押し入り、警官を含む3人を殺害。さらに警察に“挑戦状”を送り付け、中国大陸に渡って強盗を犯す……。「ピス健事件」は、いまから100年近く前の大正時代に起きた日本犯罪史に残る“劇場型犯罪”だ。

「守神健次」「本田俊一」「大西性次郎」など名前も使い分け(変わらないのは「ピストルの健次」を縮めた「ピス健」という呼び名)、変装も繰り返したこの犯人は、いったい、どういう人物だったのか――。

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「シャツ1枚を身に着け、手ぬぐいで頬かむりをした年頃24~25歳の中肉中背のハイカラ男が押し入ってきて…」

「守神健次」とも表記される「森神健次」の名前が近畿、特に兵庫県で知れ渡ったのは20年近く前のこと。新聞記事で最も早いと思われるのは1908(明治41)年6月20日付神戸新聞だ。

まだ「百人斬り強盗」と呼ばれていた時期の事件記事(神戸新聞)

 西宮の線金(針金)強盗 百人斬強盗に必適

 きのう(19日)午前4時ごろ、(兵庫県)武庫郡西宮町(現西宮市)内今在家町電車停留所前の茶店、山本宇之助方へ、シャツ1枚を身に着け、手ぬぐいで頬かむりをした年頃24~25歳の中肉中背のハイカラ男が押し入ってきて、寝ていた宇之助をやにわに引きずり起こした。「大きな声を立てるとこれだぞ」と、右手に持った短刀を目先に突きつけ、驚く宇之助の両手に針金で巻き付けて縛った。家族の者を次の間に追い込んで「声を立てると命がないぞ。静かにしていろ」と脅しつけてふすまを締め切り、宇之助に向かって「俺は森上健二という者だ。金を出せ」と言って売上金十円余(現在の約3万4000円)と伊勢崎銘仙の単衣(ひとえ=裏の付いていない着物)1枚、女帯1筋ほか1点を強奪。そのまま西の方向に立ち去った。夜が明けて西宮警察署に訴え出て、同署と御影署は非常線を張って犯人の検挙に努めたが、手がかりがなく(犯人は)いまだに不明という。宇之助の申し立てから考えれば、このほど神戸市葺合町(現神戸市中央区)上筒井、吉岡書林出張所に押し入って「自分は百人斬り強盗だ」と称して家族1人を傷つけた者に必適するようで、目下厳重に捜査中。

「ハイカラ男」の「ハイカラ」は、辞書には「小ぎれいで気がきいていること」とあり、日露戦争(1904~1905年)後からよく使われた。演歌師が歌う「ハイカラ節」が流行したこともある。しかし、感覚的な要素が大きく、ここでは「今ふうの」といった程度の意味なのではないか。

「斷獄實録」によれば、彼は同年5月1日に神戸市内の民家に侵入したが、家人に「火事だ、火事だ」と騒がれて何も取らずに逃げた。これが初めての強盗(未遂)だった。

新聞は森神健次の犯行を大きく取り上げた(神戸新聞)

「署員を挙げて捜索しているようだが…」と“挑戦状”が…

 次が記事にある神戸市葺合町の事件で6月7日だった。同書には、被害に遭ったのは「書籍店『吉岡宝文館神戸支店出張所』」で、強盗は「東下りの森神健次」と名乗り、被害は53円50銭(現在の約18万円)だったとある。「必適」という用語は当時の流行語だったらしく「同一」というような意味だろう。

 その後も6月20日西宮、6月26日神戸、7月に入って1日神戸(失敗)、4日神戸の寺院と犯行を重ねた。特徴は「百人斬りの森(守)神健次」と名乗ることと、家の提灯に火をつけさせてから引き揚げること。日本刀とおもちゃのピストルで脅すのが“定番”で、この時点ではまだ本物のピストルは使っておらず、新聞の“肩書”は「百人斬り強盗」。「ピス健」はまだ生まれていなかった。