「いろいろお世話になっております。私は例のピストル強盗ですが…」警視庁に届いた手紙
1925年11月16日の東淀川区の寺院強盗以降、ピス健の犯行は一時鳴りを潜めた。しかし、その間も彼は“神出鬼没”だった。「斷獄實録」の記述を中心に見ていこう。11月19日、大阪府の警察部長と刑事課長に1通ずつ、翌20日には警視庁に、岡山・倉敷の消印の手紙が届いた。
「いろいろお世話になっております。私は例のピストル強盗ですが、人を殺しましたについてはまたいろいろと事情がありまして、私が悪いとばかりは申されません。本をただせば、皆社会の罪に起因していると思います。まだ少し捕まるのは早いようですから当分失礼します。これから朝鮮、満州(現中国東北部)方面へ行って、もっと腕を磨いてきます」
人を食った内容というか……。やり方は「百人斬り」のころと共通している。
事件翌日の11月17日夜には背広姿で列車で岡山に。駅前の旅館に泊まって手紙を書き、翌18日、下関行きの列車に乗った。
前の座席の女性が倉敷で下りると知って手紙の投函を依頼。下関では連絡船乗船の手違いから朝鮮に渡るのを諦め、神戸の親類らに「奉天(現瀋陽)に来て支那人の家に寄寓しており、これから長春、ハルビンへ行く」という手紙を書いて、満州に帰る中国人学生に奉天で投函してもらうよう頼んだ。自分は下関発東京行きの夜行列車で上京。倉敷と奉天からの手紙で捜査が混乱することを見込んだ行動だった。
「大阪府警察史第2巻」によると、実際に、大阪府刑事課は警部ら「満鮮捜査隊」を奉天にまで出したが、後手後手に回り、逮捕は空振りに終わった。
ピス健はさらにまた下り列車に乗り、大胆にも大阪で下車。中之島図書館で満州の地図を頭に入れて、下関から関釜連絡船で釜山へ。奉天に至って知人の家に宿を求めた。さらに奉天で強盗に入り、日本円で260円(現在の約41万円)を手に入れた。
しかし、妻のことが気になり、12月1日、中国服に草色のサングラスで変装し、「高山仁三郎」の偽名を使って客船で大連から神戸に到着。船からランチに飛び移って隠れるなど、警察の警戒網をくぐり抜けて入国した。
「ピス健は必ず神戸に帰ってくる」との確信
12月10日。京都市内の質店にピストルと短刀の強盗が押し入り、現金130円(同約20万円)と質草の金の指輪80個(時価約1500円=現在の約240万円相当)を強奪。「夜が明けるまでに警察へ届けたら皆殺しだぞ」と捨てぜりふを残して去った。
11日発行12日付大朝夕刊には、数日前に「京都の質屋を襲う」と(警察に)書面を送って直ちに乗り込んだ、とある。事件を起こした10日には、大阪の木賃宿に「中国人毛皮商・福慶東」を名乗って宿泊している。
この時期、強盗事件が頻発していたが、こうした手口や人相からピス健の犯行と断定された。「ピス健現るとの報を受けた全国警察官の緊張は一層拍車をかけた」(「斷獄實録」)。中でも「平田兵庫県刑事課長は『ピス健は必ず神戸に帰ってくる』との確信を持っていた」(同書)。そんな中、突然ピス健に最後が訪れる。