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「けちくさい窃盗」から「男らしい強盗」へ…

 記事によれば、好んで講談本を読み、好んで浪花節の定席に出入り。各地を放浪して壮士芝居や自転車曲乗りの群れに入って、流転と放縦の生活を続けた。

 義賊と侠客の行為に心酔し、常に大言壮語をこととした。「懺悔録」では「他家に奉公したり、書生に住み込んだり、スリの親分方に身を寄せたり……」と述べている。

 そんな彼が犯罪に走るのに不思議はなかった。各地でスリと窃盗を繰り返し、17歳の1904年、東京地裁で重禁錮4月の刑に処されたのが最初。その後も盗みを続けて何度も刑務所へ。

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 1908年、大阪の旅館で同宿した「強盗常習犯」の男から「けちくさいノビ(窃盗)なんかよして、男らしくタタキ(強盗)をやってみな」と言われ、強盗の手ほどきをされたという。「百人斬りの森神健次」の“誕生”はそれから間もなくだった。

「料理屋を狙ったのは、ぜいたくなお客から手にしたものだから悪銭と思った」

 ピス健と共犯の男の公判が大阪地裁で始まったのは1926(大正15)年9月7日。7日発行8日付大毎の記事を要約すれば、多数の傍聴者が詰め掛けて大混雑。裁判長が共犯の男を尋問している間、ピス健は大あくびをするなどしていたが、そのうち、裁判長の前に進み出て「大概に調べたらどうです。胃が悪くてやりきれん」とダダをこねて法廷を緊張させた。

荒れた初公判を報じた大阪朝日

 自分に対する尋問になると、「身分、経歴、そんなものはどうでもいいじゃないか」と放言。「茨木の事件は認めるが、ほかは全て否認します」と述べた。「料理屋を狙ったのは、ぜいたくなお客から手にしたものだから悪銭と思った」とも。

 そのうち「一言聞いてもらいたいことがある」と言いだすと、「満廷水を打ったようにシーンとする」。裁判長は口を開こうとするピス健を押しとどめ、陪席判事と協議した後「安寧秩序を害するものとして傍聴を禁止する」と宣言した。

「素人公判」と題して森神健次の裁判への意見と量刑予想を募集した新聞もあった(神戸又新日報)

 これでは何が何だか分からないが、ピス健は予審段階から彼独特の反体制的な“哲学”を披露しており、法廷でそれを再現されるのを避けたと思われる。

スピード判決。言い渡された量刑は…

 判決は同月25日。これほどの大事件にしては恐ろしいスピード審理だ。ピス健は死刑。共犯の男は懲役8年だった。

判決は予想通り死刑だった(大阪朝日)

 25日発行26日付大朝夕刊によれば、ピス健は「おととい妻が面会に来て『1日でも長らえて。それには控訴や上告をすればいいと聞きました』と勧めました。かわいそうです」と告白。それでも、「世間を騒がせたことを謝し、併せて、私のために命を落とした人の霊も慰めたいと強く決心しておりますから……」「控訴権を放棄します」と一審判決に服することを断言した。

 ピス健は同年12月6日、大阪刑務所北区支所で死刑を執行された。満39歳だった。「かねて覚悟していたこととて少しも動ぜず、従容として刑場の露と消えた」と6日発行7日付大朝夕刊。

死刑執行を伝える大阪朝日

 遺体は、最初の出獄後に身を寄せた篤志家が引き取った。判決の翌々日には妻子との最後の面会を果たしていた。「斷獄實録」には辞世の歌が記されている。「ひが人となりたる罪は赦(ゆる)されよそのため我は登る刑臺(台)」。「ひが人」とは異常な人間というような意味か。

判決後、妻子と涙の再会をした(大阪朝日)

 さらに子どもを思う歌も。「父なくも育ちてくれよこの父は陰身にそひて護り見るぞよ」。ピス健も人の親だったということか。