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「神出鬼没森神健次 百人斬の強盗 尚網に罹(かか)らず」(6月26日付神戸新聞)、「悠々提灯を点じて去る 天を翔(かけ)るか地を潜(もぐ)るか 不敵の曲者」(6月27日付神戸又新日報)……。新聞は連日のように書き立てた。

 そして7月7日付の神戸新聞は「百人斬強盗森神健次 本社と相生橋警察署に消息を通ず」という見出しの記事を載せた。それによれば、6日にはがきが社に寄せられ、差出人は「市内某所の橋の下にて 森神健次」と書かれていた。

神戸新聞に届けられた「森神健次」のはがき

 裏面は要旨「署員を挙げて捜索しているようだが、従来の手段ではとても捕まらない。近く驚天動地の大惨劇を起こすつもりだ」という内容。「もう1通は相生橋署に送った」とも。警察とメディアへの“挑戦状”だった。

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すぐに“挑戦状”の結末が

 しかし、すぐ結末がきた。7月13日付神戸新聞には次のような見出しが載った。

「百人斬強盗森神健次捕縛さる 盗人の晝(昼)寝―懐中の短銃と枕頭の短刀―御影分署の大手柄―墓場の発見品―何(ど)うせ首がない覺(覚)悟」

「森神健次」逮捕を報じた神戸新聞

 記事によると、御影分署の刑事が木賃宿を臨検したところ、手配に特徴が似た男が昼寝をしているのを発見。あっさり逮捕したという。「斷獄實録」は、実家の天井裏には奪った物品が山のように隠してあったと書いている。

 一連の事件の中にはけが人もいたようで、ピス健は強盗傷人で1908年8月、無期徒刑(現在の無期懲役)の判決を受け、福岡・三池刑務所で服役した。最初のころは反抗的で狂暴だったが、恩赦で刑期が15年に短縮された後、1919年ごろからは従順な服役者になったようだ。

 1923年8月出所。満36歳になっていた。台湾から上海、天津を回って帰国。翌年、兵庫・尼崎の篤志家の家に身を寄せているうち、その家で「女中」をしていた女性と経歴を隠して結婚。神戸の港湾土木会社に雇われて工事の監督などをして働き、子どももできた。

「捜査と防犯」に収録された「兇賊太田愛次郎の懺悔録の一端」では、当時のことを「至極幸福に暮らしておった」と書いている。しかし、そんな暮らしも長くは続かなかった。1925年8月のある日、妻が彼の経歴を知ったことから会社を辞め、妻子を置いて家を出た。

「斷獄實録」によると、そのころ、兵庫県警察部の平田盛中・刑事課長にピス健から便りがあった。平田課長は、出獄後のピス健に同情して、官舎に呼んで話を聞くなどしていたのだという。送ってきたのは別れの手紙とピス健自身の写真。これがのちに彼の犯行の決定的な裏付けとなる。ピス健が東京周辺で強盗を始めるのはそれから間もなくのことだった。