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 知人によると、ピス健は午後10時ごろ、サングラスの中国人の変装姿で入ってきて、男性を呼んでくれと言った。知人が行って話したものの、男性は拒否。それを聞いたピス健は持ってきた風呂敷包みから着物を出して着替え始めた。かつらと粉白粉で見る間に女になって出て行ったという。

女装と中国人。ピス健の変装姿(「警民一如」より)

 兵庫県下の警察が署員を非常呼集して警戒していると、三宮署から報告があり、同署員が臨検に回ったところ、星の家の主人から「いましがた来た」と教えてくれたということだった。

 同じ日付の東日には「舅(しゅうと)にも私にも優しく そして『良い親』です」という見出しの「ピストル強盗の妻、涙で語る」という記事がある。女の子を背負って、病気の父親の看病をしながら、「まさかまさかと思っていましたのに……」「どうぞ間違いであってほしいと思います」と涙ながらに語っている。

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「今日までいろんなことをやって多数の人の命を取りましたが…」取り調べに残した談話

 大毎の13日付朝刊には、取り調べ時のピス健の談話が載っている。

「今日までいろんなことをやって多数の人の命を取りましたが、別に悪かったとも何とも思ってはおりません。しかし、今度捕らえられたのは、はや私の年貢の納め時ですから、いずれ遠からず死刑に処されることでしょうが、それも私は別に何とも思いません」

「私が死刑になりましたら、研究のため解剖に付してもらいたい。なるべくなら、死んだ後でなく、生きながら解剖をしてもらいたい」

 その後、各紙は競ってピス健の生い立ちから犯罪歴、思考、性格などを連載企画で報じた。

 生い立ちを最も早く報じたのは「義賊と自惚(うぬぼれ)て惡(悪)事 十七歳にまづ(ず)下獄」が見出しの12日発行13日付國民夕刊のようだ。だが、内容は本人の「懺悔録」や「斷獄實録」とだいぶ違っていて、どれが事実かはっきり分からない。たぶん、本人が相当脚色しているところもあるのだろう。

 記事は「1887年3月、神戸市山手通りで生まれた」とするが、「斷獄實録」は兵庫県加古郡平岡村(現加古川市)の農家の三男と書く。「懺悔録」にはこうある。

「(父は)寄席を3つも経営し、相当な暮らしをしていたが、その当時の家庭及び周囲の環境がよくなかったので、知らず知らず少年の私にある悪感化を及ぼすに至った」

「芸人らも多数出入りし、私もそれに交わり、子どもながらに寄席、劇場でよからぬことを覚えてくるというありさまで、金銭も母や父の妾(めかけ=愛人)らからもらい、多少自由になるところから、ますます悪くなっていった」

「強情我慢で父母の言うことを聞かず、学校では同年配の子どもをいじめるというので、その苦情が父母の元に来るというありさまで、ついに14歳の時、高等小学校3年を中途で無断外出し、東京に走った」

 しかし、警察などが情報源とみられる國民の記事は「父が事業に失敗して」「逆境に沈んだことが、彼の半生を約束づける第一歩であった」と書いていて、この方が事実に近いように思える。