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ぎりぎりの生活のなかで踏み込んだアクセル

 1年目以上に、真剣に研修に臨んだ田中さんは「なにも面白かった記憶はないんですけど、とにかく必死でした」と振り返る。

 その必死さが、「どう考えても無理」と考えていた独立につながってゆく。

 2年目の修業を終えた2002年、親方の牛舎の空きスペースを借りられることになり、「田中畜産」を設立。農協を通して新規就農者が無利子で借りられる200万円で軽トラックと妊娠している雌牛5頭を仕入れた。

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「研修1年目と2年目では明らかに親方や周りの農家さんの反応も変わって。こいつはほんまにやるやつやなって思ってもらえたのが、大きかったですね。2年間研修しても、先の見通しはなにも変わりませんでした。でも、とにかく動いてみなきゃわかんないと思っていました」

 念願の新規就農を果たし、半年後には親方の家の近くにあった空き家を借りて、ひとり暮らしを始めた。その頃、田中さんを「口だけ」と煽った彼女からフラれてしまったが、大学の友人や家族は応援してくれた。

 最初の数年間は、手探り状態。起業の翌年、最初に買った5頭が無事に出産した。そのうち1頭の雌牛は母牛にするために残して4頭を売りに出したが、2001年末から2002年にかけて日本で牛海綿状脳症(BSE)の牛が見つかったこともあり、1頭30万円の値段しかつかず、4頭で120万円。

 この金額で生活をしながら牛の世話をできるはずもなく、親方やほかの繁殖農家、肥育農家の手伝いもしないと暮らしていけなかった。

 繁殖農家は、子牛を売るビジネス。母牛は1回の分娩で1頭しか子どもを産まないから、基本的には母牛の数が増えない限り、収入が大幅に増えることはない。田中さんは乏しい資金をやり繰りしながら、1頭ずつ母牛を増やした。

「頭数が少ない時期はすごく苦しかったですね。本当に少しずつしか前進できなかったから、はたから見たらもう趣味というか、お遊びみたいに見られていたと思います」

 風向きが変わったのは、会社を設立してから3年目。小規模ながらも地道に事業を営んできたことが評価されて、地元の金融機関から融資を受けられるようになった。同じタイミングで、地元の農協から「牛舎を建てないか?」と声がかかり、田中さんは、ここでアクセルを一気に踏み込んだ。3500万円の借金をして牛舎の新設を決意し、次々に母牛を購入していった。

 この頃、経産牛の放牧も始めた。通常、経産牛は10歳以降になると繁殖の役目を終えたとみなされ、肉牛として安く売られる。経産牛の肉は硬い、味が落ちると言われ、価格は和牛の3分の1以下。田中さんはその経産牛を春から秋まで放牧し、自然の草で育ててから「グラスフェッドビーフ」(草主体で飼育した牛肉)として売り出そうと考えた。

 なぜ、価値が低いとされる経産牛に着目し、そんなに手間と時間のかかることをしようと考えたのだろう?

 一般的に、肉牛のエサとして与えられている穀物飼料は輸入品がほとんど。

 一方で、日本は耕作放棄地や放置された山林が広がっている。

 放牧をしてそこに生えている草を与えることで、その資源をうまく活用することができる。ただ、子牛から牛肉にできる年頃まで放牧すると成長に時間がかかるし、管理も大変だ。

 そこで目を付けたのが、経産牛。肉牛として出荷される前の数カ月だけでも放牧に出すことで、少しでも持続可能な畜産に近づけようと考えた。