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清張は著書『小説帝銀事件』(1959年)において、真犯人は旧日本軍の「731部隊」関係者である可能性を示唆し、事件はGHQ統治下の「日本の闇」のひとつであると位置づけている。
平沢が冤罪なら、真犯人は誰なのか――容疑性が強い人物として実名が取りざたされたこともあったが、確定判決を覆すほどの決定的な証拠はついに見つからなかった。清張は平沢が死去した1987年、次のように語っている。
「七三一部隊説はあくまでも想像だが、『疑わしきは罰せず』の精神からいけば平沢は無罪ではないか」(朝日新聞1987年5月12日)
清張のみならず、そう考える人はいまも多い。この事件が「未解決」とされるゆえんである。
「仙台拘置支所の面会室で密かに撮影した平沢の姿です」
さて、39年間の獄中生活を送った平沢の後半生がどのようなものだったのか、それを伝える資料は極端に少ない。
確定死刑囚の外部交通は厳しく制限されており、面会はもちろん、手紙のやりとりすら自由ではない。再審を担当する弁護士や指定された親族、拘置所側が許可したごく限られた関係者だけが、平沢と「外界」をつなぐ人間であった。
ここに1枚の写真がある。薄暗い面会室のような場所で、老いた男性が笑みを浮かべている。
「1969年に、私が仙台拘置支所の面会室で密かに撮影した平沢の姿です」
そう語るのは、共同通信のカメラマンだった新藤健一氏(79歳)だ。
「私が知る限り、生きている平沢の写真はこの後、撮影されていないと思います」
1948年に逮捕された平沢は、長らく旧東京拘置所に収監されていた。支援者らが慌てたのは、死刑確定後の1962年、宮城刑務所に併設された仙台拘置支所に平沢が移送された時である。