終戦直後の混乱の中で、この国では数多くの奇怪な事件が起きた。1949年7~8月に起きた下山、三鷹、松川の3つは戦後の謎の3大事件として知られるが、その前年1948年に発生した帝銀事件は、12人が殺害される過去最大の毒殺事件として世間を震撼させた。

犯罪史上も例のない事件になった「帝銀事件」。扱った書籍も数多い

 容疑者として平沢貞通・元死刑囚という高名な画家が逮捕され、死刑判決を受けたが、執行されないまま39年に及ぶ獄中生活のすえ病死。それから四半世紀過ぎたいまも、遺族が20回目の再審請求中だ。冤罪説は根強く、「七三一部隊」など旧日本軍謀略部隊の隊員らが疑われ、占領軍が関与しているとの指摘もあった。事件をめぐる長い歴史には、法曹人ばかりか政治家や作家、市民運動家らも登場する。

容疑者として逮捕され死刑判決を受けた平沢貞通・元死刑囚 ©文藝春秋

 なぜ、このような世界犯罪史上にも例のない事件になったのか。私は事件の三十数年後、所属していた通信社社会部で事件の洗い直しチームの一員として取材。その後も断続的に関係を持ち続けてきた。その体験も含めて事件を振り返ってみる(現在は差別語、不快用語とされている言葉が登場する)。

ADVERTISEMENT

口から血を吐きバタバタと…

「帝銀椎名町支店の怪事件 全行員に毒薬を盛る」(朝日)、「戦慄の銀行ギャング? 12名毒殺、5名瀕死」(毎日)、「銀行員十一名を毒殺 帝銀椎名町支店へ偽防疫員」(読売)。1948年1月27日付の各紙はこんな見出しで事件を報じた。

 敗戦から2年半足らずで、新聞はまだ朝刊のみ2ページ建ての時代。各紙とも2面トップだが、意外なほど地味な報道ぶり。当時は占領下で、記事はGHQ(連合国軍総司令部)新聞課の事前検閲を受けていた。戦前戦中、国民の戦意高揚をあおった新聞にGHQの目は厳しく、それをおもんばかって表現を抑えていたのだろう。死者は最終的に12人だったが、読売に加えて朝日も「11名」としたのは、取材した時間の違いか。リード付きの朝日の記事を見よう。

 閉店直後の銀行支店に東京都衛生課員と称する男が赤痢の予防薬だと言って全行員に液体を飲ませ、同日夕刻までに11名を殺害した奇怪な事件が突発した。

 

 26日午後4時ごろ、豊島区長崎1ノ33,帝国銀行椎名町支店=支店長・牛山仙次氏(不在)=に背広を着たネズミ(色)外套(がいとう)、やせ型、丸刈りの45歳ぐらいの男が支店長代理、吉田武次郎氏(44)に面会を求め、「衛生課から来たが、この付近に集団赤痢が発生したので行内の大消毒を実施する。その前に大急ぎでこの予防薬を飲むように」と、ビンに入った無色の水薬を差し出し、なお「金をしまうのは後にして、早く飲むように」と服薬を急がせ、行員一同は怪しみもせず、吉田支店長代理の机に置かれた水薬を代わるがわる服用したが、たちどころに悪寒、吐き気を催し、いずれも短時間で意識不明となって事務室や洗面所で卒倒した。行員の1人、村田正子さんは、救いを求めるため路上にはい出たところを、付近の鴨下テツさんが発見。大騒ぎになったが、沢田芳夫(22)以下5名の男子、5名の女子行員は行内で既に死亡。残り5名(男3名、女2名)は新宿区下落合の聖母病院に収容されたが、間もなくうち1名の男子も死亡。午後7時ごろまでに16名中11名の死亡者を出した。

 

 行金が強奪されているかどうかは、離脱状態にあったので目下のところ不明だが、犯人が「金をしまうのは後にして……」と言った点から、おそらく奪われているものとみられる。毒殺に用いた水薬は目下同病院で分析中だが、反応の早かった点などから青酸カリによるものではないかとみられている。

 

 同銀行は普通の民家を改造したものだが、行内の小使室には小使滝沢夫婦が倒れており、廊下、事務室にももがき死んだ死体が横たわり、凄惨な光景を呈している。