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 当時は正式な発表はほとんどなく、記者は顔見知りの刑事らからの聞き込みや警察、検察幹部らからの情報を基に記事を書いていた。そのため、この事件も発生時間からして、朝日の「午後4時ごろ」に対して毎日、読売は「午後3時半(30分)ごろ」となっているなど、新聞によって事実関係に違いが生じた。

 帝国銀行は、財閥系の三井銀行が戦時中の1943年に第一銀行と合併して誕生。事件後、第一銀行を分離し、1954年、三井銀行(現三井住友銀行)に商号を戻した。記事にある通り、支店は外見も民家で「小使」がおり、8歳になるその子どもも犠牲になっている。

「凄惨、行員のたうつ血の現場」

 朝日は入院中の預金係、村田正子さん(22)の談話を載せている。「すごく苦かった。飲んですぐ気持ちが悪くなり、洗面所に駆け付けたところ、先に行員がいっぱい詰め掛けており、見ている間にバタバタ倒れ、そのうち自分も意識不明になってしまった」。

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「帝銀事件発生」大事件でもこの程度の扱いだった(朝日)

 注目すべきは「飲み方まで実演」の見出しを付けた読売の別項記事。「小ビン、2合ビンの2本を吉田さんのテーブルに置き、飲み方を教えるからと言って、まず小ビンの薬を湯飲み茶わんに移し、これを飲んだ後で、2合ビンの薬を飲まないと生命が危ないと言って、自分も飲む実演をして見せたので、行員たちは何の疑いも挟まず飲んだものである」。のちに犯人像のポイントとされた点だ。読売には「凄惨、行員のたうつ血の現場」という、駆け付けた近所の人の目撃談もある。

 まず通用門で村田さんがのたうっているのを見つけ、驚いて小使室に入ると、大人2人と子ども2人が転がってもだえ苦しんでいた。事務室に入るとなおひどく、行員9名が床に吐瀉(としゃ)物を吐き散らしたうえ、息も絶え絶えに口から血を吐き、ある者は机やイスにしがみ付き、ある者は床上にのたうっているという凄惨さであった。さらに湯殿をのぞくと、脱衣場に1人、廊下に2人が苦しまぎれにはい出して死んでいた。

検閲時間に間に合わず「特オチ」

 併用写真は朝日が帝銀椎名町支店の外観と病院に収容された被害者と家族、読売もほぼ同じだが、毎日は支店内に倒れている犠牲者の遺体を捉えているのが目立つ。

 一方で、全国の地方紙、ブロック紙のほとんどの1月27日付紙面には事件の記事が載らなかった。それは共同通信からの記事配信が遅れたからだ。「共同通信社三十五年」は「第一報を出稿しようとしたときは、(GHQ新聞課の)午後7時の検閲時間を過ぎること25分、ニュースを手にしたまま一夜を過ごすというつらい目にあった」とだけ書いている。

 要するに「特オチ」だったわけだが、私が聞いた記憶では当日、労働組合の会合があり、警視庁詰めの記者全員がそれに参加していたためだという。記事は丸1日遅れで1月28日付に掲載された。

 では占領下、アメリカ側ではどう報道されたのか。アメリカ軍の準機関紙とされる「スターズ・アンド・ストライプス」(「星条旗」紙)の1948年1月27日付には1面右下に載っている。「公務装う男が大量毒殺、12人死亡」が見出し。発生時刻は「午後3時ごろ」、伝染病は「赤痢」としているが、そのほかの内容は日本の新聞と大きな違いはない。