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現場検証打ち切り、捜査最苦難の時代

 新聞は見込み記事を流し続ける。「毒殺魔に指名手配」(1月30日付朝日)、「容疑者ついに浮ぶ」(2月1日付毎日)といった記事や、「警察に知らせる」と言って現場を離れた「桶屋」の男、「山口二郎」の名刺の印刷を発注した男らを紙面に登場させたが、どれも犯人には結びつかなかった。

 注目すべきは1月31日付読売にベタ(1段)で載った「小切手引き出した新人物登場」という短い記事だった。「捜査本部へ30日入った新情報によれば、28日、安田銀行板橋支店に犯人の人相、年齢、服装と似通った45、6歳の男が現れ、小切手で1万円を引き出して立ち去った事実があり、捜査本部では新人物の登場として捜査に乗り出した」。新人物も何もない。その小切手が帝銀椎名町支店から奪われたもので、現れた人物が犯人だった。そこが事件の本筋だったのに……。

 森川哲郎「獄中一万日」によれば、安田銀行板橋支店で小切手が現金化されたのは、読売の記事より1日前の1月27日午後。小切手(額面約1万7000円)は事件当日、椎名町支店に持ち込まれ、生き残った出納係が伝票に書き込んだだけで未処理だった。

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 捜査本部は当日の現場検証を午後9時半ごろに打ち切ってしまい、小切手の被害を確認したのは1月28日午後。その日のうちに聖母病院に搬送された出納係から詳しく聴取していれば、現金化した時点で逮捕できた可能性が強い。著者は当時、平沢元死刑囚の支援団体「平沢貞通氏を救う会」の事務局長。同書は「不手際の一語に尽きるもので、これほど大きなミスはなかったはずである」と書いている。

迷走を生んだ捜査力の低下

 背景には、戦争による捜査力の圧倒的な低下があった。「獄中一万日」は「警察力は、当時は戦前と比べ壊滅に等しい時代であった。機動力などはまるでなく、費用も極度に不足し、人員もまた不足し、捜査のためには全て十分とはいえない最苦難の時代であった」と書いている。

 この事件でも警察のミスは数えきれないほど。事件は当初食中毒と疑われたこともあって、救助の警察官や救急隊員ばかりでなく、メディアややじ馬まで入り込んで、現場保存が全くできなかった。鑑識課員は行員が飲み残した湯飲みの液体を、洗浄が不十分な醤油ビンに移し替えたため、「青酸化合物」という以上の詳しい分析ができなかった。事件は初動捜査からつまずき、報道も同様だった。

迷宮入りのうわさも…

 各紙が「容疑者」と報じた人々はその後、全て捜査線上から消えた。1月31日付朝日では、藤田刑事部長が記者に「犯行が詐欺的性格を持つ計画的知能犯なので、ある程度の日時はかかる」と発言。毎日は「犯人の足どり掴(つか)めず」と書いた。

居木井為五郎。名刺班班長(右側が逮捕前、平沢元死刑囚と撮った写真)=「週刊現代」1965年6月24日号より

 この後、事件の報道は徐々に減少。迷宮入りもうわさされるようになった同年8月、突如として容疑者が浮上する。それは松井の名刺の交換相手を追った「名刺班」の捜査からだった。