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銀行員ら12人が死亡した「帝銀事件」の容疑者が獄中で見せた最後の笑顔 撮影したカメラマンが語る死刑囚との一瞬の“連係プレー”とは

2022/12/30
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 当時の東京拘置所には死刑執行施設がなく、死刑囚の首に縄をかけて足元の床が開く音から「バタンコ」と呼ばれていた死刑執行は、仙台拘置支所で行われていた。死刑囚が恐れる「仙台送り」がついに平沢にも訪れたというわけである。結局、平沢は1974年に東北大学医学部付属病院に移送されるまでの12年間をここで過ごすことになった。

 平沢が仙台に移送された2年後、昭和の東京五輪が開催された1964年に新藤氏は共同通信にカメラマンとして入社。同社の仙台支社に配属となった。

自身が撮った写真を手に当時を思い出す新藤氏

「住んでいたアパートの前に仙台拘置支所の高い赤レンガの塀があり、そこに死刑囚の平沢がいることも当然、知っていました。当時のキャップだった小林治雄記者と相談し、平沢の現在の姿を撮影できないか、計画を練ったのです」(新藤氏)

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 新藤氏以前にも、平沢の「獄中写真」が公開されたことが1度だけあった。最高裁が上告を棄却し、平沢の死刑が確定した1955年4月6日の当日、東京新聞の石井幸ノ助カメラマンが東京拘置所の面会室で隠し撮りをした写真が、当日の夕刊に掲載されている。

 もっとも、当日の平沢は刑が確定していない「未決」の扱いで、面会そのものは権利として保障されていた。確定死刑囚となった平沢との面会は、そう簡単ではない。

「私も小林記者も本名で差し入れをしていましたが…」

 新藤氏は1968年より、「平沢貞通氏を救う会」のメンバーとして、画家だった平沢に「雪の松島」などの写真や画材の差し入れを続けた。死刑囚との関係性を強める「実績作り」の一環である。

帝銀事件遺体搬送 ©共同通信社

「私も小林記者も本名で差し入れをしていましたが、不思議と報道関係者であることは当局に察知されませんでした。そのあたり、当時はチェックも厳しくなかったと思います」(新藤氏)

 差し入れを繰り返すこと10カ月、面会のチャンスが訪れた。