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 15分が過ぎた。拘置所の職員が「そろそろ」と打ち切りを促したとき、新藤氏は左の脇に右手を伸ばした。

 左に座る職員に気づかれぬよう、カメラの本体を平沢に見せると、平沢は大きくうなずいた。幸い、平沢の隣の職員は筆記のため視線を下に落としていた。

 新藤氏はやおら立ち上がり、大きな声を出した。

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「どうも、どうも……ありがとうございました! 平沢さんもお元気で……また来ます!」

帝銀事件の犯人として描かれた似顔絵 ©毎日新聞社

 その大きな声で、シャッター音はかき消された。それを見た平沢も立ち上がり、身を乗り出した。平沢が体の角度を変え、職員からカメラが見えないように死角を作ったのが分かった。

「お世話になりました。また来ますからね!」

 もう一度、シャッターを切った。平沢が微笑んだように見えた。拘置所の職員は、最後まで着席したままだった。

「普通は1枚ですけどね。大丈夫だとは思ったけれども、やはり撮影できたかどうか不安だった」(新藤氏)

「すぐに公表することはできなかったですね」

 社に戻り、すぐさま暗室でフィルムを現像した。ノーファインダーで撮影したにもかかわらず、カメラは見事に平沢の表情をとらえていた。頭髪はすでに白く無精ひげを生やしていたが、カメラに目線を向けたその笑みは、長い拘禁生活においてもまだ、平沢に人間らしい感性が残されていたことを物語っている。

平沢が新藤氏にあてた葉書

「撮影自体は成功しましたが」

 と新藤氏が語る。

「すぐに公表することはできなかったですね。やはり、撮影が禁じられている場所ですから、発表すれば拘置所内で責任問題になり、当事者に迷惑を及ぼすことになる。写真は封印して、記事は“救う会の会員”が面会した話と、平沢が描いた絵を合わせて出稿しました」

 この写真が撮影された5年後の1974年10月、82歳になった平沢は体調を崩し、前述の通り東北大学医学部付属病院に移送された。このとき、共同通信は初めてこの写真を公開したが、その際も撮影者や日時の公表は控えている。

告別式の様子 ©時事通信社

 平沢貞通の「最後の写真」は、何を物語るのだろうか。

「私個人としては、平沢は真犯人ではなかったという心証を持っています。松本清張の作品はもちろん、事件に関するさまざまな本を読みまして、私は平沢の人柄について理解につとめました。彼が撮影に自ら協力したのは、著名な画家であった平沢のアーティストとしての気質が大きかったのではないかと思います。金のために大量殺人を計画した人物と、写真を撮影させるために立ち上がった平沢が、私のなかではどうしても結びつかないのです」(新藤氏)

 平沢の遺族は2015年、第20次再審請求を申し立てており、事件はまだ終わっていない。自ら獄中写真の被写体となった平沢の執念は、いまなお生ける人々を動かし続けている。