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銀行員ら12人が死亡した「帝銀事件」の容疑者が獄中で見せた最後の笑顔 撮影したカメラマンが語る死刑囚との一瞬の“連係プレー”とは

2022/12/30
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 1969年7月9日、新藤氏は仙台拘置支所を訪れた。「救う会」メンバーとして安否確認の面会が許されたが、「事件に関する会話は禁止」との条件付きだった。

「背広の内側に、縦8センチ、横13センチ、28ミリワイドのレンズを装着したニコンSPを隠し持って面会室に1人で入りました。小型ですが、スパイが使うような特殊なカメラではありません。ボディチェックをされたら終わりでしたが、それはなかった」(新藤氏)

1985年に獄中の平沢が開いた個展 ©時事通信社

 2メートル四方の面会室に入ると、新藤氏が座る椅子の横に1人、アクリル板の向こうにも1人、計2名の拘置所職員がすでに待機していた。会話内容の記録と監視をするためである。

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 平沢が入室してきた。新藤氏とは初対面である。許された時間は15分。挨拶もそこそこに会話が始まった。

「どんな絵を描いているのですか」

「いま知人にあげる雪の富士山を描いています。大きさは、これくらい」

 平沢は手を大きく広げてみせた。

「もしシャバにいれば、いまごろはテンペラ画の人間国宝ですよ。いまほしいのは画材、特に色紙と麻紙です」

「うれしいことです。自分は無罪に違いないのです」

 親子以上に年の離れた2人の会話が続く。「浦島太郎」になっている平沢に新藤氏が質問した。

「入所以来、世のなかは大きく変わっていますが?」

「最近は“団地”とやらがあるのも新聞などで知っています。一家一族がバラバラに生活するのは、あれはよくありませんね。映画もときどき見せてもらえるし、ラジオも聴いてますから、ほとんどのことは分かりますよ」

昭和5年の「北海道談片」に掲載された平沢

「衆院法務委員会での話は聞いていますか?」

「今朝、磯部(常治)弁護士などからウナ電(至急電報)で知りました。うれしいことです。皆さんのおかげです。自分は無罪に違いないのです。しかし、関係者のメンツもあるので、恩赦があればそれも喜ばしいことです。つい2、3日前、法務大臣あてに無罪の陳述書を出したばかりでした」

 禁じられた「事件に関するやりとり」にだんだんと接近していく。緊張のやりとりを新藤氏が振り返る。

「何とかして写真を撮らなければという一心で、話をしっかり聞く余裕はなかったですね」